この頃、特にここ1年ほどの間は、人々が互いに愛想良く(nicely)振舞わなくなったことが目立つようになった気がします。

けれども、そんな今だからこそ、「愛想良くあること(niceness)」の意義を考え直す時期なのかもしれません。

なぜなら、「親切であること(kindness)」のほうがずっと大切であり、この2つは同義ではないからです。

先週偶然見つけたこのツイートは、アメリカの東海岸と西海岸のどちらにも住んだことのある人のものですが、なかなか面白いものでした。

東海岸は親切だが無愛想で、西海岸は?

東海岸と西海岸の文化の違いを知人に説明する時、よく私は「東海岸は親切だが無愛想で、西海岸は愛想は良いが不親切だ」と言うのですが、東海岸に住む人たちはすぐ納得してくれます。西海岸に住む人たちは怒りますけど。

このツイートには楽しませてもらいました。

(まさにそのステレオタイプにあてはまる、フィラデルフィア(東海岸ペンシルバニア州)出身のぶっきらぼうな人が思い浮かびました。バカみたいに上着も羽織らず寒空の中で震えている人に向かって悪態をつきながら、自分のコートを脱いで着せてあげるような人でしょう)

でもそのあと、Green氏の指摘したことが胸に刺さりました。

人は、無愛想でも親切になれますし、不親切でも愛想良くすることができるのです。

Twitter上のやりとりでも指摘されているように「親切さ」とはニーズに応えようと手を差し伸べる姿勢であり、その人の雰囲気とは関係ないのです。

愛想が良いというのは、「寒いなんて、お気の毒です」と言うこと。親切であるというのは、「まったく、何度同じことを言ってるんだよ。ほら、このセーターを着ろよ!」といった対応をすることでしょう。

親切とは、ニーズに応えようと手を差し伸べることであり、その人の口調や雰囲気とは関係ないのです。


東西の両海岸に住んだことのある者として、まったく同感です。

ニューヨーク市内のある通りを横断していた時のことですが、自転車便(バイクメッセンジャー)が私にぶつかってきたのです。

隣にいた女性が私の腕をつかみ、その自転車便に向かって「バカヤロー」と叫んでから私のほうに振り返り、ほとんど同じ口調で「あんた、大丈夫?」と言ったんです。

ニューヨークの“親切”をよく表している例です。

まずは親切を目指そう

言うまでもなく、親切と愛想の両方を一緒に使うことが理想です。

結局のところ、ぶっきらぼうにならなくても、コートを手渡すことはできるのですから。

ですが、昨今の状況に疲れ果てていて、一度に1つずつしか新しいスキルを身につけられないのだとすれば、まずは親切になるところから始めましょう。

愛想良く見えたいですか、それとも正直になりたいですか?

愛想良く見えたいですか、それとも親切になりたいですか?

愛想良く見えたいですか、それとも道徳的に正しくありたいですか?

愛想良く見えたいですか、それとも実際の効果を出したいですか?

愛想は、何の指標にもなりません。連続殺人犯だって、「あの愛想が良くて物静かな近所の男の子」と言われますし…

親切とは、あなたの言葉に伴う(または言葉のかわりになる)行動だと考えてみてください。

それは、食料品をトランクへ積むのに悪戦苦闘している3人の子連れの母親に黙って手を貸すことであって、「おかあさん、頑張ってるね」とにっこり笑って声を掛けながら通り過ぎることではありません。

寝込んでいる友人にスープの入った鍋を持って行くことであって、同情のため息をつきながら、すぐに良くなるといいねと伝えることではありません。

ばかげた政治的横断幕をようやく外してくれた隣人とは、愛想のよい会話を交わしたくないとしても、もしその家のごみ箱が風にあおられて道路に転がってしまったら、元の場所に戻してあげることが親切なのです。

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Meghan Moravcik Walbert - Lifehacker US[原文