「文豪の名言」というフレーズに、どのような印象を抱くでしょうか?
そこに、なにを期待するでしょうか? 多くの場合、頭に浮かぶのは、独特の表現による人生論だったり、自然と前向きに慣れるようなことばではないかと思います。
でも、きょうご紹介する『文豪たちの憂鬱語録』(豊岡昭彦、高見澤秀 編集、秀和システム)に、そのようなものを期待するべきではありません。
なぜならここに選ばれているのは、いわゆる“名言”とは対照的な位置にあるといってもいい文豪たちの“本音”だから。
具体的にいえば、「憂鬱」「絶望」「悲哀」「慟哭(どうこく)」などに満ちたことばがすくい取られているのです。
どんなにがんばっても、人生には失敗や挫折、災難はつきものだ。そんなときに「もっとがんばれ」とか「あきらめなければ道は開ける」とか言われても、本人たちにとってはつらいだけということも多いだろう。がんばったからといって、解決できない問題があるのも人生なのだから。
そんな残念な人生に必要なのは、じっと黙って傷ついた心に寄り添ってくれる言葉。本書で紹介するのは、そんな言葉の数々だ。(「まえがき 心に寄り添う珠玉の言葉」より)
きょうはそんな本書のなかから、暗さの代名詞というべきお馴染みの文豪に焦点を当てた第1章「太宰治のネガティブ語録 暗すぎてウケる! 文豪界随一の絶望名人」をご紹介したいと思います。
太宰治の絶望史
青森県に生まれた太宰治の本名は津島修治。津島家は大地主で、父親も名士として知られていました。
そんな環境で育った太宰も成績優秀で、旧制中学への進学率が5%程度だった時代に弘前中学に進学しています。
そんなところからも、頭のよさが伺えようというもの。
さらに旧制弘前高校にも進学するのですが、その時点で文学と出会うことになります。のちに師事することになる井伏鱒二や、猛批判することになる志賀直哉などを愛読したのです。
なかでも芥川龍之介には大きく魅了されますが、在学中に芥川が世を去ったことをきっかけとして、絶望への道を歩み始めます。
たとえば同人誌を発行するなど、文士としての道を歩む一方、在学中には初めての自殺未遂を起こしてもいます。
しかしなんとか卒業し、1930年には東京帝国大学文学部仏文科に入学しました。
上京後、講義についていけなくなると「左翼活動に傾倒して投獄される」「津島家を分家除籍される」「カフェーの女給・田部シメ子と心中事件を起こす(シメ子のみ死亡)など、完全に絶望キャラと化す。1933年ごろから執筆活動を本格化させ、1935年には第1回芥川賞候補にまでなる。
だが同時に、このころ「新聞社の入社試験に落ちて自殺未遂」「腹膜炎の手術からパビナール中毒に」「芥川賞に落選して選考委員の川端康成に激怒」「妻が不倫したことから夫婦で心中未遂(後に離縁)」など、現在では広く知られる“太宰像”が、ほぼ完成する。(12〜13ページより)
その後、1938年の結婚を機に、文士としての活動が軌道に乗り始め、数々の名作を生むことになったのでした。
なお太平洋戦争中も意欲的に執筆を続け、疎開を経験するものの、無地に終戦を迎えています。
ところが帰京後、戦前から深い関係にあった太田静子との再会、山崎富栄との出会いを経て、既婚の身でありながらそれぞれと恋に落ちることに。
そして1948年、富栄と玉川上水に入水し、38歳でその生涯を終えたのでした。
こうして生涯を振り返ってみても、太宰がいかに自己破滅的な一生を送ってきたかがわかるはず。そのため、絶望や憂鬱に満ちた名言も数知れません。
現在では、SNSなどで「太宰暗すぎてウケル」などと呟かれているが、ここまで振り切ると、読み手にはむしろ生きる活力となっているようだ。(13ページより)
そのため本書でも、実に100を超える太宰の「ネガティブ名言」が紹介されています。いくつかをご紹介しましょう。(12ページより)
「恥の多い人生を送って来ました」〜後悔と諦念に満ちた人生
らっきょうの皮を、むいてむいて、しんまでむいて、何もない。きっとある、何かある、それを信じて、また、べつの、らっきょうの皮を、むいて、むいて、何もない。
『秋風記』
(27ページより)
人生とは、私は確信を以て、それだけは言えるのであるが、苦しい場所である。 生まれて来たのが不幸の始まりである。
『如是我聞』
(28ページより)
生きている事。ああ、それは、何というやりきれない息もたえだえの大事業であろうか。 『斜陽』
(28ページより)
ひとはなぜ生きていなければいけないのか、そのわけが私には呑みこめなかった。
『ダス・ゲマイネ』
(28ページより)
私には、誇るべき何もない。学問もない。才能もない。肉体よごれて、心もまづしい。けれども、苦悩だけは、その青年たちに、先生、と言はれて、だまってそれを受けていいくらゐの、苦悩は、経て来た。たつたそれだけ。藁一すぢの自負である。
『富獄百景』
(31ページより)
死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。 着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目が織りこめられていた。 これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。
『葉』
(32ページより)
残念な人生を耐えつつ生きていくにあたって、あるいは残念な人生を楽しむ際に、文豪たちのこうしたことばがそっと寄り添い、慈しんでくれるだろうと編者は記しています。
だとすれば、追い詰められたときや心が折れそうなときには、あえて本書を開いてみるのもひとつの手段かもしれません。
「自分だけが特別なのではない。名だたる文豪たちもまた、自分たちと同じ人間であり、残念な人生を生きたのだ」と実感できるだろうから。
あわせて読みたい
Photo: 印南敦史
Source: 秀和システム