明治以来、日本には、無私の人、潔い人、天晴れな人――、ひと言で言うと「美しい日本人」が数多くいました。

そうした人々の生き方や考え方を知ると、そうそう、日本人ってこうだったんだよなあとしみじみ胸に迫るものがあります。歴史に名を残さないまでも、こうした日本人は市井にたくさんいたはずです。

ましてや、殖財と私利私欲に走る人たちのニュースが連日のように報じられる昨今にあっては、そんな“偉人”たちの足跡に触れれば、痛快な思いがしたり考えを改めたりすることもあるのではないでしょうか。“偉人”の人生は、ときとして我が身を映す鏡にもなるのです。(「はじめに」より)

冒頭にこう記された『美しい日本人』(文藝春秋 編、文春新書)は、これまでに「文藝春秋」誌で記事になった数百人の人物のなかから、73人の「美しい日本人」を厳選して紹介したもの。

登場する先達が活躍したフィールドは政官、国際社会、企業、文芸、学問など多岐にわたっています。そして重要なポイントは、各人の業績やことばには、現代を生きる私たちにも応用できるエッセンスが凝縮していること。

きょうは第3章「企業人を超えた影響を与えた人々」のなかから、食品の世界で成功したふたりのエピソードを抜き出してみたいと思います。

安藤百福  カップヌードルは地球上で最後に残る

安藤百福さん(1910〜2007年)は、チキンラーメンやカップヌードルを開発し、国民食に育てた日清食品の創業者。ここではその次男であり、現社長の安藤宏基氏が、衰えない情熱を持っていた父親のことを語っています。

思い出すのは、研究室とは名ばかりの家の離れの小屋で百福さんがチキンラーメンの開発に没頭していたときの姿。そのころ小学生だった宏基氏は、黒焦げの麺、湯をかけても戻らない麺など、失敗作が山になっていた光景を記憶しているといいます。

カップヌードル開発の際には様々な試作品のカップを毎晩持ち帰り、夜触り、朝起きて触り、「どう思う?」と私にも聞いてきました。何度失敗してもあきらめず、完成するまで続ける人でした。戦後の貧しい中、「食が満たされてこそ世の中が平和になる」という熱い思いがそれを成し遂げさせたのでしょう。「できる立場の者がやらないのは罪だ」と後年も繰り返していました。(79ページより)

こう振り返る宏基氏は、チキンラーメンについてもカップヌードルについても、「最初からここまで考えられていたのか」といまだに驚くことがあるのだそうです。たとえば百福さんはチキンラーメンをつくる際、スープを麺に染み込ませることにこだわったのだとか。スープの包装をなくせば、CO2排出削減に役立つから、というのがその理由。

しかも、試行錯誤の末に発明した技術であるにもかかわらず、「野中の一本杉より森のほうが強い」といってその特許を公開したため、世界中で製造されるようになったのでした。どこかで災害が起きたら、現地の製造事業者が非常食としてカップ麺を拠出できるという、世界的な枠組みまでつくり上げたわけです。

チキンラーメンが発売された1958年当時は、マーケティングということばすらなかった時代。しかし、そんななかにあって開発商品の販売戦略を組み、一気に量販体制を築いてテレビCMを打ち、顧客の声を聞く体制を確立。それはまさしくマーケティングそのものだったといえるでしょう。

2021年に発売50年を迎えたカップヌードルは世界百カ国で販売され、累計五百億食を達成しました。しかし宏基氏はいまでも、創業者である百福氏から学ぶことばかりだと述べています。(78ページより)

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