「知性」という言葉の漢字の形を、しっかりと見てみてください。 「知」は、「矢」と「口」が合わさって書かれており、「射たその矢が的の中心に当たるように、口で言える」ということを表したものです。
「性」の「忄」は「心」を表します。「生」は、もともと「土」と、その上に若葉が生えていることを表す形です。「性」とは、「生まれながら、成長しながら身についてくる心」のことなのです。
つまり、「知性」とは、「学びながら少しずつ身につけていくことによって、物事を間違わずに選択でき、かつ、その選択の理由を明確に説明することができる力」を言うことになります。(「はじめに」より)
冒頭でこうした説明のある『自分一人で学び、極める。』(山口謠司著、フォレスト出版)のテーマは、「社会人の武器として必要な知性を磨き、『創造する力が高まる独学の技術』をご紹介すること。
独学を通じて自分に必要な知性を磨き、自分なりの新しい結論を導き出し、アウトプットする。
それを繰り返し行える人こそ、これからの時代を力強く、柔軟な頭で生き抜いていけるというのです。
独学ほど、時間、費用、成果をコントロールできる学習法はありません。 高い資格スクールや学校に通う必要もありません。空いた時間を使って勉強ができます。
最近では、コミュニティに入ったり、仲間をつくって勉強をすることをすすめる人もいらっしゃいますが、私はやはり独学にこそ意味があると思っています。
自分のペースで、誰に気をつかうこともなく、自分の知的好奇心を満たすために楽しく勉強すれば、創造性が高まり、成果が出るのです。(「はじめに」より)
そんな考え方に基づく本書の第1章「社会人の生命線である『知的創造力』を高める独学術」に目を向け、“ひとりで学ぶ”ことの意義を確認してみることにしましょう。
“ひとりで黙々とやる”ことで真理は追求できる
独学、すなわち「ひとりで学ぶ」ことは、とても楽しく意味のあること。
もちろん、仲間と一緒に学ぶとか、グループのなかで学ぶほうがいいという方もいらっしゃることでしょう。
しかし著者は、ひとりで黙々とやることこそ大切で、徒党を組んでやるほど時間や効率、成果が下がってしまうと考えているのだそうです。
なぜなら、いつも決まった仲間と一緒に学問をしていると、思考に柔軟性がなくなってしまうから。
逆に「ひとりで学ぶと、なかなか自分の殻を脱ぐことができないのではないか」と思われるかもしれませんが、そうではないのだとか。
小回りが利くようにして、自由自在に、誰ともしがらみを設けず、どこへでも行って、わからないことはその道の専門家に聞いて学びを究めていくには、ひとりで黙々とやる独学がいちばん楽しくていいという考え方なのです。
『論語』に、衛(えい)の国の公孫朝(こうそんちょう)という人が、孔子の弟子である子貢(しこう)に「孔子は誰に学んだのか」という質問をした話が乗っています。 子貢はこう答えます。
「何の常師(じょうし)か之れ有らん」 (これと言った、決まった先生があったわけではありません) (19ページより)
学ぶ態度に古今の差、東西の差などはありません。そして学びの目的は、文学であれ歴史であれ、仕事や経済や法律であれ、どんなことであっても「真理を追求していくこと」。
だからこそ、先生に就いて先生を超えられない自分をつくってしまうということをすべきではないという考え方。
ひとりで悩んで問題を解決してこそ、次への突破口を探すことができるようになるというのです。(18ページより)
知性とは「二者択一のための深い理解」である
ところで知性とは、どのようなものを言うのでしょうか?
英語のintelligenceは、ラテン語のintelligereに由来しますが、これは、もともと「二者択一」ということを意味するものでした。しかし、二者択一と言っても、選ぶためには明確な説明ができること、またそれぞれについての理解が必要です。
つまり、「“二者択一”のための深い“理解”こそが、intelligenceと言われるものなのです。(24ページより)
「intelligence=知性」とは、「学びながら少しずつ身につけて行くことによって、物事を間違わずに選択でき、かつ、その選択の理由を明確に人に説明することができる力」。
そして、ここで思い出す必要があるのは冒頭で触れた「矢」ということば。その背後には儒教に基づく考えが隠されていて、それが「中庸(ちゅうよう)」という教えなのだそうです。(24ページより)
独学による知性の獲得が「これからを生き抜く力」を高める
なんのために「知性」を身につけるべきだと考えるのか、その目的は人によって違うでしょう。しかし独学、あるいは独学で身につける「知性」の最終目的は、「正しく、楽しく、明るく、満足した思いで生き抜く力」をつけるためなのだと著者は記しています。
そして、そうであるからこそ、儒教の「中庸」という教えが非常に役立つというのです。
「中庸」という言葉の、「中」という漢字について説明します。 「中」は反時計回りにすると、四角い「的」の真ん中に、「矢」が一本突き刺さっている形に見えます。 この漢字の姿は「知」の字と同じく、「中」は「矢」が一本、的に当たった形で書かれているのです。
また、「中庸」の「庸」は、「常」とい同じ意味であると言われています。 すなわち、「中庸」とは、「常に、どんなときでも、放った矢が的の真ん中に当たる」ことを表しています。(26~27ページより)
では、なにに向かって矢を放つのでしょうか?
著者によればそれは、「よりよく、生き抜くため」にもっとも大切なことである「人の心」。
どんな分野の勉強をするにしても、最後は「人の心」を知ること、またそれを明確に間違いなく理解することこそがもっとも重要な課題だというのです。
知性という「矢」は、人の心を射て、人心を得ることに使われるもの。
つまり独学による知性の磨き方、あるいは知性の獲得は、禅のような「心引き締まる喜び」と、「自分と格闘して手に入れる深い自由への飛翔」に満ちているということです。(26ページより)
独学はこれからの時代、社会人にとって必要不可欠になると著者は言います。
なぜなら分野や業界を問わず、その専門性を高め、その過程で生まれる創造的な思考が社会人として必要だから。
それは現在の仕事に関する独学だけでなく、知的好奇心をくすぐられるすべての分野に関する独学についても言えるのだといいます。
自分ひとりで学び、自分ひとりで極められる人こそが真理を追求でき、評価され、人生の質を高めることができるというのです。
ぜひとも本書を参考にしながら、独学を身につけ、活用していきたいところです。
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Photo: 印南敦史
Source: フォレスト出版