99U:米国のボストンにあるニューイングランド音楽院では、1960年代にガンサー・シュラー氏が院長に就任するまでジャズが教えられていませんでしたが、それには理由があります。アーティストはこと自分たちの芸術に関しては保守的で、クラシック演奏家もその例に漏れません。世界に名高いボストンのバークリー音楽大学でも、教授陣の多くは、自分たちの規範に「泥を塗る」ようなジャズの即興演奏者に嫌悪感すら抱いていました。そうした伝統を重んじる人たちは、彼ら自身だけでなく後世においても、クラシックの領域とジャズの領域の間に決定的な溝があると信じ込んでいました。
けれども、2015年6月21日に逝去したシュラー氏には、そんな溝などありませんでした。
10年間ニューイングランド音楽学院の院長を務めたシュラー氏は、聴衆や学生に両方の分野で最高の体験をしてもらいたいと考え、ジャズをカリキュラムに採り入れました。作曲家でもあるシュラー氏は、「ジャズとクラシックの中ほどに位置する」音楽のジャンルとして、「第三の流れ」(Third Stream)という言葉をつくりました。シュラー氏は、さまざまな意味で、卓越した創造性を持つ人物像のまさにお手本と言える人でした。つまり、レッテルを打ち破り、アイデアを融合するタイプです。
しかも、シュラー氏が音楽家として生み出した成果は、ただの組み合わせによる創造性をはるかに越えるモデルです。「クラシック」対「ジャズ」、「固定」対「自由」、「計画的」対「即興的」などなど、私たちは音楽とは関係ないことでも、そうした対極的なものを分けようとする傾向があります。科学的な研究が示唆しているように、ジャズ演奏家の脳は元々、より創造的なのでしょうか? そしてだからこそ、ほかの自由形式の芸術でも、より創造的な作品が作られるのでしょうか? その答えは単純ではありません。心理学者らは、ジャンルにこだわることではなく、それとは対照的な柔軟性こそが、創造性を測る上でより優れたモノサシとなる証拠を次々に見つけています。
比べてみると、ジャズ演奏家は創造性にきわめて富んでいるという神話は、左利きの人は芸術性が高いという神話と似ているところがあります。利き手についていえば、創造性はどちらの手を使うかということよりも、それを使う度合いのほうに大きく関係しています。つまり、左利きの人のほうが右利きの人より常に創造性が高いわけではないのです。右手にしろ左手にしろ、それを使う頻度のほうが、どちらの手を使っているかよりも脳について多くのことを語っているのです。それは言ってみれば、異なるジャンルを結びつけ、すべての可能性を試してみる能力です。重要なのは、「両手を使うこと」なのです。
では、クラシックとジャズのそれぞれの長所を融合したガンサー・シュラー氏のような人々から、創造性についてどんなことを学べるのでしょうか? 2つのものを結びつけるシュラー氏のような「調停者」は、二項対立的な世界に住む私たちに対して、対極的なものの間をうまく行き来する意味を教えてくれています。以下で具体的に見ていきましょう。
「体験への寛容性」対「体験への依存性」
ケンブリッジ大学の博士課程で心理学を専攻するDavid Greenberg氏は、シュラー氏流のジャズとクラシックの融合について、Greenberg氏の言うところの「体験への寛容性」(openness to experience)を持つ人たちによりアピールするだろうと述べています。
「体験への寛容性は、I.Q.とは関係ありません。それは、世界に対するアプローチ方法の違いなのです」とGreenberg氏は説明します。
2015年10月刊行の『Journal of Research in Personality』に掲載された実験で、Greenberg氏の研究チームは、8000人近くの被験者を対象に、メロディーの記憶力やリズムの認識力などの技能領域に関するテストを実施しました(なおこのテストは、ここで受けることができます)。その結果、5つのおもな人格的特徴のうち、「寛容性」と呼ばれる特徴が、音楽的な洗練度や能力ともっとも強く結びついていることがわかりました。さらに、音楽家ではない人たちを対象に行ったテストでも、同じ結果が得られました。つまり、もしかしたらあなたにも、自分の気づいていない音楽的才能があるかもしれないのです。
体験への寛容性があれば、思慮深く、複雑な知的生活を送ることができます。それは、なじみの薄い新たなアイデアを継続的に取り入れていく能力だと、Greenberg氏は語っています。Greenberg氏は、音楽史上もっとも影響力のあったジャズ演奏家の1人、ジョン・コルトレーンを例に挙げて、次のように述べています。「コルトレーンは、アフリカとアジアの要素を自身の音楽に取り入れました。彼は統合者です。マイルス・デイヴィスとビバップを競演する一方で、前衛的な音楽も手がけました。数々の伝記によれば、彼の体験への寛容性はずば抜けていました」
ですが、ジャズの巨人たちは、新しいスタイルの終わりなき融合ゆえに崇拝されたわけではありません。むしろ彼らは、先人たちが紡いできた深く完璧な知識により、アイデアの多様性を迎え撃っているのです。民族音楽にジャズを採り入れたことで知られるPaul Berliner氏は、即興演奏についての画期的な著作『Thinking in Jazz』の中で、ギター奏者でサックス奏者でもあったArthur Rhamesの言葉を引用しています。「今でこそ、即興演奏は私にとって直感的な行動になっていますが、それを直感的にするために、長年の演奏で得てきたすべてのリソースをかき集めているのです。学校で習った音楽の知識、私なりの音楽の歴史的理解、そして、演奏する楽器の技術的な理解のすべてをです」。
言い換えると、私たちが「創造的直感」と考えているものは、ひらめきやぼんやりした白日夢とは何の関係もないのです。直感は、芯のしっかりした広い知識から生まれるものなのです。
ニューイングランド音楽院で吹奏楽団の音楽監督や指揮者として活躍するCharles Peltz氏は、ガンサー・シュラー氏について、まさに直感を得るにふさわしい人だったと回想しています。「彼は(クラシックとジャズの)双方の背後にあるアイデアを、情緒的かつ無条件に受け入れていました」。Peltz氏によれば、シュラー氏はクラシックとジャズ両方の考え方を吸収していたそうです。過去を尊び、それを現在とうまく結びつけていました。だからこそ、ほかのどんなものとも違う、「独自」と言うに足る音楽をつくることができたのです。
つまり、新しいジャンルや行動、スタイルを試してみる一方で、自分の課題もきちんとこなしましょう。実験には自由に取り組んで構いません。しかし、これまで蓄えてきた知識の宝庫を深く掘り下げ、そうした新しいアイデアを豊かで意味のあるものにすることも必要です。創造性は、自由と制約の間の微妙なバランスから生まれるのです。
「共感しがちで感情的」対「体系化しがちで構造的」
ジャズは、自然、感情的、気まぐれといった気質の代名詞になっています。多くのジャズ演奏家が、できる限り直接的に感情を伝えることを使命だと考えているのは事実かもしれませんが、ジャズ演奏家も含めたほとんどの演奏家にとって、創造的プロセスは、Greenberg氏の言う「共感」と「体系化」の間にある領域に存在しています。
例えば、サックス演奏者が一連の音符(特定の音階など)を重視して演奏しようと決めた場合、感情に任せて演奏すること(「共感」戦略)もできますし、もっと大きなビジョンで演奏を思い描き、ルールを決めて自身が演奏する曲を丹念に吟味すること(「体系化」戦略)もできます。
Greenberg氏は、子どものころに2人の音楽教師に師事しましたが、その2人の先生は、これ以上はないほど違っていたと言います。1人はきわめて共感性の高い人物で、音楽を感じることを何よりも大事にすべきだと主張していました。もう1人は厳格な体系化主義者で、「まるで医者に診てもらっているかのようでした。生徒のすべてを調べるのです」とGreenberg氏は語っています。「その先生の課題は、4小節のフレーズをじっくり調べ、それをさらに細かく分けていくような感じでした」。
自分が共感寄りなのか体系化寄りなのかを見分けましょう(どちらかがどちらより劣っているというわけではありません)。そして、自分のワークフローの各部分について、どちらの考え方からより大きな恩恵を受けられるかを見極めます。自分が共感寄りで、出だしをどんなふうに演奏すれば良いのかわからない時は、自分の中に存在する体系化主義者になりきり、各楽章を物理的により小さなカテゴリーへと細分化していきます。自分が体系化寄りで、デザインのひな型になるものを選ぼうとしているなら、これだと思うものを活用してみてから、体系化の能力を発揮して改めて評価してみましょう。
「プロセス」対「成果物」
あるバイオリニストが、ベートーベンの「バイオリン協奏曲」の楽譜を手渡されました。それは、黒いインクで印刷されています。
ある生徒が、即興で行われたベースのソロ演奏を聴き、聴いたことを正確に書き起こしました。それは、黒いインクで印刷されています。
さて、両者の違いは何でしょうか? 多くの音楽家には自分なりの意見があるでしょうが、明確な答えは存在しません。もし違いがあるとすれば、「プロセス」と「成果物」との関係に関連しているかもしれません。バイオリニストは、ベートーベンの「バイオリン協奏曲」という「成果物」が、約45分間の演奏時間をつうじて動きながら進んでいくのを目にします。この場合、演奏を唯一無二のものにするのは、その演奏者によるベートーベンの静的な「成果物」の解釈です。一方、ベースのソロ演奏を聴いた生徒は、自分の書いたものがその演奏の単なる産物であることを、そして、そのソロ演奏をもう一度しようとしても絶対に同じものにはならないことをわかっています。そのベーシストの新しい「プロセス」は、まったく新しい成果物を生み出すはずです。
このたとえは、何らかのデジタルメディアを扱う職業の人には特にわかりやすいのではないでしょうか。インターネット上では、あなたの成果物はまさにプロセスであり、その逆でもあります。プロジェクトが「完成」しないまま進化していくのです。
言い換えれば、プロジェクトは時間とともに動的に変化していく一連の演奏と考えられます。この考え方からすると、作品は「結果を作り出すこと」ではなく、むしろ「変化を生み出すこと」と言えます。ここで問題になるのは、その変化をどう評価するかです。
例えば、あなたがオンライン出版業者で、別の出版物からある記事を転載しようと決めた場合、その転載内容は、新しい文脈に挿入されているから「オリジナルの演奏」なのでしょうか? また、ソーシャルメディアの場合はどうでしょうか? 一連のツイートとしてエッセーを書く場合、あなたの成果物は、時間をかけて少しずつ明らかになるタイプのプラットフォームに組み込まれます。果たしてこれは、あなたの創造的プロセスに影響を及ぼすでしょうか?
クラシックとジャズの演奏者たちは、これらの質問に対してさまざまな答えを持っているでしょう。なぜなら、彼らの作品は本質的に、時間と共に変化することに依存しているからです。デジタルメディアは短命さ、所有権、オリジナリティといった問題と常に対峙していますが、音楽もそうした問題に、数千年とはいかないまでも、数百年にわたって取り組んできたのです。
創造性を生かしたいなら、完璧な成果物を思い描こうとするのは一切やめましょう。その代わりに、作品が生き続けていく間、どのように変化していくかを考えましょう。
「偶発的」対「意図的」
音楽において「偶発的」であるとは、現在使用している音階や旋法に属さないピッチを指します。こうした「はぐれ者」の音符を、意識的に行ったものが、「意図的」な音になります。そうした音符は常に、明確な理由をもって曲のなかに書き込まれるのです。クラシック、ジャズ、そのほかのどんなジャンルにおいても、意図的な音は、聴き手の期待をわざと裏切ります。
意図的な音の一番粋なところは、もっとも堂々とした方法で音楽の垣根を乗り越えることです。演奏家は「そうです、あなた方は今、正しい音を聞いているのです」と言わんばかりの劇的な表現で、そうした意図的な音を強調します。意図的な音は、分類やレッテルをめぐる論争がどれだけ古くさいことかを教えてくれます。あなたがどんなことをしていても、「意図的な偶然」は、ほとんど普遍的な現象なのです。
クラシック演奏家は、「偶発的な音」を、大切なお下がりを着るように使います。着ている服は同じですが、それぞれを新しい文脈の中で、何かの意味を持たせるのです。ジャズ演奏家の場合は、その場その場で偶発的な音を使います。ただ、単にそれらが楽譜に書いていないからという理由では、それらが意図的でないとは言えません。
意図的になりましょう。予想から、敢えて外れるのです。ただし、それをする時の状況を理解しておくことが必要です。意図的になる理由は何ですか? あなたの物語、芸術、あるいはデザインにおいて、ほかのものとどう結びついていますか? はっきりと、意図的に間違ってみましょう。
科学者たちは、ジャズの即興演奏中に、脳内で何が起きているかを必死で探っています。それは無理もありません。ただ、創造性全般について理解するための手段としてその知識を使いたがっているのなら、その科学者は話の重要な部分を見失っています。たしかに、ある種の芸術は、文化的な背景やそれを取り巻く神話の結果、多かれ少なかれ創造的なものになっています。ですが、もっと突き詰めて考えると、「演奏」中の内部プロセスはすべて、1つのテーマのバリエーションであると言えます。こうしたプロセスがどう機能しているかを理解すれば、あなたの「作品」を朗々と鳴り響かせ、成功に導けるかもしれません。
Do You Have A "Jazz" Mindset or A "Classical" Mindset?|99U
Allison Eck(原文/訳:風見隆、梅田智世/ガリレオ)
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