子どもは、新しい視点をもたらしてくれる存在です。子どもには仕事も投票権もなく、10代になるまでは深刻な人間関係にさらされることもありません。ですから彼らは、物事の本質を学ぶことができる、特殊な立場にいるのです。
筆者には、子どもがいません。親でもなければ、他人の子を育てた経験もありません。そんな私がこの夏、ガールフレンドのルームメイトが9歳の女の子のベビーシッターをすることになったため、その子とたくさんの時間を過ごすことになったのです。彼女と過ごした時間は、いくつもの新しい視点をもたらしてくれました。その一部を、共有したいと思います。
なお、この記事では、その子を「エミ」と呼ぶことにします。彼女がいつも見せてくれる、たくさんの微笑みにちなんで。
自己主張せず、流れに身を任せる

私は、1週間のスケジュールを詳細に決めておきたいタイプではありませんが、何かを始める前には、心の準備をしておきたいタイプです。仲間とのドライブで私以外がハンドルを握っているときは、目的地を先に知っておきたいのです。でも、子どもにはそんなことは許されません。たいてい大人が行先を決めて、それが気に食わなかったら、彼らにできる最大限の抵抗は、ふくれっ面をすることぐらい。
エミは、めったにふくれっ面をする子ではありません。もちろん気に食わないこともたくさんありますが、すぐに気持ちの切り替えができるようです。ラジオから流れる楽しい歌、iPodのゲーム、ジョージという名のスイカなど、気を紛らわすものはたくさんあるのです。
大人の場合、なかなかそうはいきません。退屈なソーシャルイベントに参加している間でも、スマホを出して最新のゲームに興じるわけにはいかないのです。とはいえ、家族親睦会、スタッフミーティング、長距離ドライブなどの状況を問わず、誰かに質問をしたり、窓の外を見たり、その場所にいることに感謝したりすることで、気を紛らわすことはできます。
誰しも、好きでもないことをしなければならないことがあります。でも、たとえくだらない雑用だろうと、そこでポジティブな態度を保つことができるかどうかが、成功と悲劇を分けるのだということを、エミは教えてくれました。
すべての失敗が悲劇になるわけではない

自分の子かどうかにかかわらず、子どもといるときには、大人はいつもと違う行動を期待されます。悪態をつかない。酒を飲まない。汚い言葉を使わない。でも、その期待に応えることに、そこまでこだわらなくてもいいのだと知りました。私は、あろうことか、エミの前でその期待を破ってしまったのです。
9歳児の前で、「fuck」と言うなんて。
驚いたことに、宇宙は爆発しませんでした。エミは、私を罵しらなかったのです。きっと彼女は、人を罵ることはいけないという教育を受けてきたのでしょう。おかげで、私が失態を犯したことで、これまでの関係が崩れることはありませんでした。
誰しもミスを犯すものですが、日常的な習慣の方がよっぽど大事だということでしょう。1年に1回だけ5分遅刻しても、上司は何も言いません。でも、毎日30分遅れてくる部下には、上司が黙っているはずはありません。うっかりしたドジよりも、パターンの方が多くを語るのです。たまのミスは、かえって好感度アップにつながることすらあります。だから、1回のミスをそこまで気にすることはありません。
熱意をもって新しいことに挑戦する

時間の性質上、子どもたちが長年の経験に基づく専門知識を持っていることはありません。エミの場合、『バイオショック』というゲームを初めてプレイしたときに、それが明らかになりました。エミと一緒に過ごすことが多い大人のグループは、みんなバイオショックが大好きなのですが、怖いシーンが出てくることから、エミにはプレイすることを認めていませんでした。ところが、ついに、もう大丈夫だろうという判断が出たのです。
バイオショックのようなファーストパーソン・シューティングには、日常生活では使わないような運動神経と反射神経が必要になります(特に、Xboxのコントローラーでは)。人間は本来、光るアイテムをあさったり、2つの武器を同時に使いこなしたりするシチュエーションになることはないわけで、ゲーム内でのそのような行為は、後天的に学ぶ必要があるのです。エミは、そのあたりを大人に教わりながら、海底都市ラプチャーを攻略していました。
これは、彼女にとってかなりのフラストレーションだったはずです。弾薬の見つけ方からタレットの攻略法まで、ひとつひとつの操作を大人に教えてもらっていたエミ。難しい場面では、コントローラーを大人に渡して操作してもらう必要もありました。それでも彼女はあきらめずに、毎日のように学ぶ意欲を見せてくれたのです。新しいことを習得したいというエミの情熱には、目を見張るものがありました。
大人はつい、新しいことから逃げてしまう傾向があります。私はライターなので、難しい数学を学ぶのは多くの困難を伴うでしょう。でも、熱意と意欲(と適度な練習)があれば、何でも学ぶことができるということを、エミは教えてくれたのです。
外見でマンゴーを判断しない
先日、10秒以内にマンゴーを切る方法を動画で紹介しました。おかげでたくさんのマンゴーが手元に残っていたので、エミに食べさせてあげようと思いました。
「エミ、マンゴー食べるかい?」
「えー、いらない。マンゴーきらいだもん」
「食べたことあるの?」
「...ううん」
よくある話ですが、エミは初めてのマンゴーを食べて、とっても気に入ってくれました。幸いなことにエミはそれほど頑固ではなかったので、マンゴーの食わず嫌いはすぐに解消されたのです。
大人の場合、そううまくはいきません。知らないことが怖くて、新しいことに挑戦したがらないのです。私は、自分の好みに合うかどうかわからない映画を見ることすらも躊躇します。そんなことをしていたら、新しい経験を逃すだけなのに。
「普通」なんてありえない

この2カ月、3人の大人(いずれも親ではない)と9歳児の4人でいつもつるんでいたのですが、不思議なことに、いつもの夏とあまり大きな違いはありませんでした。大人向けのゲームをして、コンベンションに行き、テレビを見て。
異常というほどではありませんが、人から見たら奇妙な関係ではあるかもしれません。エミにとって私たちは、親でもなければ、監視役でもないのです。彼女からしたら、いつも仲良くしている、20歳ほど年が離れた友達と言ったところでしょう。
大人は、「普通」という、確立された社会的パターンを好む傾向があります。20代なら、20代の人とつるむのが普通。親であれば、他の親たちとつるむのが普通。それが必要なこともあるかもしれませんが、そうでないときには、「普通」を意識する必要などあるのでしょうか。
子どもによっては、父親が2人いることもあります。大学を中退したことで、数十億ドルのビジネスを立ち上げることもあります。金融学を専攻していたのに、アーティストになることもあります。つまり、「普通」が多くの人に当てはまるのは事実ですが、それは義務ではないのです。年齢も性別も経済状況も同じような人たちとつるむのもいいでしょう。でも、「親友はよその9歳児」なんてのも、素敵なことだと思いませんか?
Eric Ravenscraft(原文/訳:堀込泰三)
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