自分の過ちを認めることは簡単ではありません。しかし、それはあなたが学び成長するためには欠かせない、重要なステップです。ライターでスピーカーのCott Berkun氏は、エッセイ集『Mindfire:Big Ideas for Curious Minds』の中で、よくある4つのタイプの過ちを挙げ、過ちを理解し、過ちから学ぶ方法について解説しています。
過ちから学ぶためには、まずそれを認めなくてはいけません。自分の過ちを認めるかわりに、他人(もしくは宇宙そのもの)を非難し始めたとたん、学びは遠ざかってしまいます。そうではなく、勇気を持って立ち止まり「これは私の過ちだ、私に責任があるのだ」と宣言する時、学びのチャンスが訪れるのです。
過ちを認めた時(自分の中だけでも良い)、「非難」の場所から「理解」の場所へ動くことができ、そこで初めて学びが可能となります。賢明な人は素直に自分の過ちを認めます。そうすることで人生がうまくいくことを知っているからです。
Berkun氏のアドバイスは、私たちの常識とはかなり異なるように感じるかもしれません。私たちは普通、「過ち」や「失敗」を恥ずかしいことだと考えます。学校でも家庭でもそう教えられますし、また、職場においても失敗することは悪いことだとみなされ、誰もが過ちを犯さないように汲々としています。なにか困難なことに挑戦しようと思っても、即座に湧いてくる挫折の予感や、失敗して恥をかくことへの恐れのせいで立ち止まってしまうのです。
多くの人は、望みを叶える途上で必ず直面するであろう、過ちや失敗に対する心の準備ができていません。世の中に流通している「成功」についての信念の中で、最も欠落しているものは、ゴールが挑戦的なものであればあるほど、失敗もたくさんするだろう、というシンプルな事実です。夢が大きければ大きいほど、過ちから学び克服していく能力が重要となります。
しかし、自分の過ちを認めることはなかなか難しいことです。私たちの文化に共通している価値観は、その人のやったことはその人そのものだ、というもの。テストで失敗した人は失敗者だとみなされます。過ちを犯した人はダメな人だと思われるのです。そんな風に感じたことはないかもしれませんが、多くの人々は実際にそう人を判断します。高校や大学の友人たちの振る舞いをよく観察してみればわかるでしょう。私たちは、卵やステーキみたいに他者の消費のための基準で格付けされます(A~Fでの評価など)。大学や企業は、受験者を学校の成績や決して過ちの許されないテストのスコアで評価するのです。
自己を深く探求したことがなく、勇気よりも失敗しないことに重きを置き、思いやりのある知性やコミットメント、創造性といったものに価値を置かない人々にとって、人生は恐怖に満ちています。問題を起こさず、ルールを破らず、本心が何を望んでいるかを無視してひたすらリスクを犯さないことで、ようやく安全を確保できる場所なのです。
- 過ちを面白がれるような状況に自分を置く。
- 自分を信頼し、過ちを認める。
- 変わることを恐れない勇気をもつ。
この記事では、以上の3つについて説明していきます。まず最初のステップとして、よくある4つの過ちについて解説します。
■よくある4つの過ち大体の過ちは、以下の4つに分類することができます。
1. Stupid(馬鹿げた過ち)
単に馬鹿げたことをしてしまった、という過ち。つま先を柱にぶつけた、ピザを隣の人の猫の上に落としてしまった、バナナで自分の目を突いてしまった、など。
2. Simple(単純な過ち)
事前によく注意していれば避けられた過ち。電気代を払い忘れていたために自宅でのパーティーの最中に停電してしまった、ゲストの数を読み間違えてビールを切らしてしまった、など。
3. Involved(関与的な過ち)
わかっていても防ぐのにかなり努力が必要な過ち。会社に毎日遅刻してしまう、昼食をついファーストフードで済ませてしまう、基本的な財務会計を完全に無視していたために、起業したばかりの会社を倒産させてしまった、など。
4. Complex(複雑な過ち)
複雑な要因によって起き、今後も明確に避ける方策は見つかりそうにない過ち。例えば、どちらを選んでも望ましくない結果が待っている場合の決断など。
過ちに関する哲学的な議論は、この際置いておきましょう。誰かにとって望ましいことでも、他人にとっては過ちであることもあります。それは自分で決めればいいことです。あなたは隣人の猫をバナナで突くのを楽しんでいるかもしれません。長い目で見れば悪いとわかっていることでも、目先の快楽に負けてやめられないことはよくあることです。何が「過ち」かは個人的な哲学によって定義されるものですが、この記事は過ちから学ぶことの助けにはなると思います。
最初の2つの種類の過ち「馬鹿げた過ち(Stupid)」と「単純な過ち(Simple)」から何かを学ぶことは容易です。しかし、それはどちらかというと浅い学びです。一度問題を理解して回避方法を覚えてしまえば、似たような過ちを簡単に避けることができるでしょう。もしくは、どんなに気をつけても避けがたい過ちもあることに気がつくかもしれません。例えアインシュタインほどの天才でも、柱につま先をぶつけることはあるものです。
しかし、これらの過ちは特段面白くはありません。ここからの学びはあまり深いものではなく、自分自身について何かを学ぶというほどのことではありません。例えば、次の2つの過ちを比べてみてください。
- ホームレスの子供達のための慈善コンサートで、自分が指揮するオーケストラの第二トランペットのためにデュアルパート・ハーモニーを使ったところ、バイオリンの重要なパートがかすんでしまった。
- 下着の中からオレオ(お菓子)の破片が出てきた。
ある意味、どんな過ちを犯してきたかがその人を形成すると言えます。犯してきた過ちが面白ければ、人生もまた面白いのです。もし、自分の最大の過ちがテレビ番組の再放送を見逃したことだったり、宝くじを間違えて買ってしまったことだとすれば、十分に挑戦的な人生を生きているとは言えないでしょう。
「単純な過ち(Simple)」や「馬鹿げた過ち(Stupid)」からはあまり多くを学べません。さっさと対策をとって、同じ過ちを二度としないようにすればいいのです。しかし、もし習慣的に、もしくは衝動的に「馬鹿げた過ち」を繰り返しているとしたら、それは実は「関与的な過ち(Involved)」なのかもしれません。
■関与的な過ち(Involved Mistakes)の扱い方人間、変わることはとても難しいです。まず、変わる必要があるということを認めることが難しいです。「もし私が完全なら、なぜ変わる必要がある?」となります。自分は完全だという思いを捨てられないために、人は変わることを拒否するのです。しかし、この完全意識は罠。自分の過ちを認めなかったり、同じ過ちを繰り返したりするのは、現実を見るのを拒否しているということです。自分の振る舞いの中にある矛盾や欠陥、弱さを認めなければ、子供のころから持ち続けてきたであろう習慣や制約の罠に、永遠に捉えられたままになります。誰かに「あなたはまるで赤ちゃんみたいだ」と言われたとしたら、それは恐らく真実なのです。
変わることのもう一つの難しさは、過去に挫折した問題にもう一度身を置かなければいけないところです。それは「よし、今度こそゴミ出しを忘れないにしよう」といった些細なものから、「もう友達とは寝ないようにしよう」といった深刻なものまで、多岐に渡ります。これは、職場や友人関係、恋愛、自分自身との約束など、あらゆる状況に当てはまることです。やり直すということは、ついこの前の過ちを認めるだけでなく、過去からずっと繰り返してきた過ちを認めなければいけません。これは、挫折感と罪悪感が大きく、もう一度立ち向かおういう気力を挫かれてしまいがちなので、非常に大変です。
これが、過ちから学ぶためには他者の助けを借りた方がよい理由の1つです。アドバイスをもうらだけでなく、自分が正直でいるためにも他者は必要です。協力的な友人や指導者、専門家から客観的な視点で自分を見てもらいましょう。そして、いつ、どのように自分が約束事を破ったり、破棄してしまっているのかを指摘してもらってください。
また、過ちを防ぐのにも他者の助けを借りることができます。
フレッド、今日ゲームキューブをやりたいんだけど、僕今日はやらないってサリーと約束しちゃったんだ。だから一緒にどこかに出かけてくれないかい? そうすればサリーとの約束を破らずに済むからさ。
自分が他者の助けが必要なことを認めること、そして実際に助けを借りることは、自分一人で解決するよりも勇気がいります。「関与的な過ち」から学べる最大のレッスンは、自分が変われることかどうかを知る、ということです。変化には、難しい変化と比較的簡単な変化があります。どの変化がどれくらい難しいかは、実際に過ちを犯し、その過ちを正そうと立ち向かったときに初めてわかることです。
■複雑な過ち(Complex Mistakes)の扱い方最も興味深い過ちは、最後のグループの「複雑な過ち」です。過ちは、複雑になればなるほど忍耐が必要となります。まだよく理解していない問題を手っ取り早く解決しようとするのは危険です。たいていの場合、事態はさらに悪くなります。
筆者は、子供の頃に大好きだったゲーム『Atari2600』の画面にノイズが出るようになった時のことを思い出すとか。彼は兄とある解決策を思いついたそうです。それは、ノイズが出たらゲーム機を強く叩くというもの。やってみたところ、見事にノイズが消えたとか。ところが何週間か経った頃、ゲーム機が壊れて電源が入らなくなってしまいました。彼らは怠惰かつ無知で、忍耐が足りなかったのです。
ジャーナリストや刑事、医者といった調査の専門家は、行動を起こす前にできるだけたくさんの視点から事態を見るように努めます。刑事は目撃者を探し、医者は検査を繰り返し、科学者は膨大なサンプルを集めます。彼らは、自分自身を含めて人間の知覚は間違いを犯しやすく、様々なバイアスがかかっていることを知っています。客観的な理解を得る唯一の方法は、いくつかの異なる視点を比較することです。複雑な状況の中で起きた過ちを理解したいのなら、自分もそうする必要があります。
まずは、自分に起きたことについて話し合える人を見つけることから始めましょう。自分の過ちを誰かに話して、彼らの経験から何か自分に役立つことを話してもらうのです。同じ過ちを犯した誰かを知っているかもしれないし、自分の知らない対処法を知っているかもしれません。最も重要なことは、自分に何が起こったかを誰かに説明しながら、時間軸に沿って事実を明確にしていくことです。相手からの質問に答えることで、見落としていた重要な事実に気づくかもしれません。
もし、複数の人の協力を得られたなら、それぞれの意見を個別に聞いてみます。それぞれで状況に対する視点が違うことでしょう。人によって身につけているスキルや物の見方、置かれている立場が異なるからです。複数の人の視点を合わせることで、実際に何が起きたのかを包括的に見ることができます。
人によって意見が食い違っていた場合は、それぞれの話を個別に聞くようにしましょう。刑事は目撃者同士に話し合いをさせたりはしません。他の目撃者の証言で、その人の意見を左右させてはいけないからです。個人個人によく話を聞いた上で、改めて全体としてどうだったのかを検証するようにします。
『Inviting Disaster: Lessons From the Edge of Technology』という本に、良い例が載っています。北海に浮かべられた油田作業員のための宿泊施設が夜の間に転覆してしまい、100人以上の死者が出た事件があったそうです。エンジニアリングの専門家たちは、事件の原因を説明するための新しい学説を素早く構築し、操作ミスとマネージメントの決断ミスに着目した複雑な説明を練り上げました。
しかし、これらすべての学説は間違っていたのです。注意深い調査の後、事件の真相が明らかになりました。事件の数週間前に支持構造物にできていたひび割れを、きちんと修理せずに、上からペンキで塗って隠していたことが判明したのです。もちろん、報告はあがっていませんでした。この小さく、単純で馬鹿げたミスが、上部の構造物を崩壊させ、宿泊施設を海に沈めたのです。もし、注意深い調査がなされなければ、間違った結論に到達していたことでしょう。そして、間違った教訓が残されたかもしれません。
すなわち、過ちを起こしてしまった数時間前、もしくは数日前までさかのぼって調べなければ、すべての関連する要素を見つけだし、そこから真に価値あることを学ぶことは不可能だということです。過ちが複雑なものであればあるほど、より過去にさかのぼる必要があり、また、よりオープンなマインドで事実を見ていく必要があります。外部から客観的な第三者を連れてくる必要があるかもしれません。容疑者に犯罪を調査させることはあり得ません。自分の過ちを調査する人間として、自分自身は十分に信頼に足る人物と言えるでしょうか?
以下は、調査の助けとなる質問です。
- 過ちが起こったと思われる一連の出来事は何ですか?
- 大きな過ちに先行する、いくつかの小さな過ちはありましたか?
- 何か間違った仮定を置いていませんでしたか?
- 正しいゴールに向かっていましたか? 正しい問題に取り組んでいましたか?
- 早期に間違った仮定に気づく可能性はありませんでしたか?
- 現在知り得た情報で、そのときあれば役立った情報はありますか?
- また同じ状況になったとしたら、何か違うことができますか?
- どうすれば、そのような状況になることを避けられますか? どういう状況が望ましいですか?
- 与えられた状況ではどうしても避けられなかったことですか?(絶対に不可能なことを試みていたとしたら、失敗したとしても過ちとは言えません)
- それが過ちだったかどうかを判定できる十分な時間が経過しましたか?
実際に何が起きたのかを理解していくにつれて、最初は「複雑な過ち」に見えていたものも、より小さくて単純な過ちに分解できることがわかるかもしれません。上記の北海油田の例のように、ひび割れをペンキで塗りつぶしてしまうような過ちは、非常に馬鹿げているとも言えますが、いつでも起こりうることでもあります。こうした過ちを防ぐ仕組みがありましたか? システムがうまく機能していないことを示すような、人々の振る舞いのパターンがありませんでしたか? 複雑な過ちを分解できてはじめて、「変わること」が可能になるのです。
■ユーモアと勇気いくら分析しても、自己への信頼がなければどうしようもありません。もし、職場などで自分の犯した過ちを周りの人が見ていた場合、次回も同じ過ちをするのではないか? と疑いの目で見られるでしょう。しかし、疑いは克服しなければならないのです。
やるべきことは、過去の過ちから学び、もう一度準備を整えてゲームのステージに復帰すること。過去の失敗から学ぶことで視野は広がります。よく見渡してみれば、賢くて能力のある人たちも似たような過ちをしていることに気づくでしょう。もしくは、自分より大きな過ちを犯していることに気づくかもしれません。そして、それこそが成功への必須科目でもあることを理解するでしょう。
ユーモアの感覚は、自分が健全な場所にたどり着いたことを示すよい指標です。長い時間がかかるかもしれませんが、過去の過ちをコメディーのように感じられるようになったらしめたもの。自分の過ちについて笑えるようになったということは、過ちを受け入れ、広い視野で眺められるようになった証なのです。広く客観的な視点に立つことは、将来の過ちを避けるためにも重要です。ユーモアは心をやわらげ、強迫観念にとらわれてしまうことを防ぎます。過去の過ちを繰り返さないようにと身を固めすぎて、そればかりにエネルギーを注ぐと、むしろ新たな過ちを起こしやすくなるということに気づいてください。「人は、将来自分を噛む虎を恐れずに、過去に自分を噛んだ虎を恐れる」ということわざもあります。
過ちから学べる最も重要なレッスンは、過ちは不可避ではあるが、もし目の前の過ちから何かを学ぶことができれば、将来起こす過ちからも学べるようになる、と信じることです。進歩は平坦な道ではありませんが、学び続ける限り、失敗よりも成功の確率が高まりますし、過ちそのものがさらなる成功へと導いてくれるでしょう。
- 責任を引き受けることで学びが可能になる。
- 過ちを犯すことと、間違った人間であることを混同しない。
- してしまった過ちを変えることはできない、しかし反応の仕方は選ぶことができる。
- 進歩への余地を見つけたとき、成長が始まる。
- なぜそれが起きたのか、どんな要因があったのかを理解せよ。
- どんな小さな過ちが大きな過ちへつながっていったかを理解せよ。
- 検討すべきなのにしなかった代替策はなかったか?
- その過ちを二度と犯さないために、自分にどんな変化が必要か? 自分にとってどんな変化は難しいのか?
- 次に同じ状況になったとしたら、どのように振る舞い方を変えるべきか?
- 笑えるようになるまで、自分の過ちをよく研究する。
- 過補償しないこと。状況は常に変わる。
いかがでしたか? 皆さんにも過ちから学んだ経験はあるはずです。質問や意見のある方は、ぜひコメント欄にお願いいたします。
Scott Berkun(原文/訳:伊藤貴之)