ミニマリストライフスタイルを始める理由は様々だと思いますが、聖人ぶったアンチコンシューマリズムや、お金の節約といった理由でミニマリストを目指しても、結局続かなくなってしまう可能性が高く、ミニマリストの本質とはズレてきてしまいます。
ハードドライブに十分な容量のあるノートパソコンのおかげで、デスクトップパソコンは不要になり、DVDやCDもデータだけパソコンに保存でき、本やその他の書類もスキャナーを使うことでデジタル化出来る時代になりました。
しかし考えてみると、このライフスタイルは、決してシンプルではありません。
ノートパソコンと普通の本とどちらが複雑な構造をしていて、どちらが高価なのかは明らかです。DVDやCDは、またデータをリップする必要がある場合を考えて、ストレージに入れたままのことも多いです。クローゼットに入りきる量に、服を減らすことは大事ですが、これは沢山の服を所有することによって魂が汚れるから、といった理由では決してありません。結局のところ、ミニマルなライフスタイルによって、良い人間になれるわけではないのです。
ただし、よりハッピーな人にはなれるかもしれません。これは、魂から荷を下ろしてくれるのではなく、考えることや心配事を減らせる、というだけのことです。
筆者の家はそれほど大きくないので、モノが少なければ少ないほど、自分が使えるスペースは大きくなります。ごちゃごちゃしている状態は我慢出来ないので、モノは少ないことが理想で、その方が作業をする場合にもテーブルを広く使え、食事の際にテーブルの上を片付けるのも簡単です。モノが少ないほうが引っ越しにも好都合です。家を所有しないのも、自分のライフスタイルにはその方が合っているからです。フットワークが軽い状態で常にいたいと思っています。
生活の中に無駄があるとイライラしませんか? キッチンで使う包丁は、二本あれば十分なのに、どうして気が付くと七本に増えていたりするのでしょうか? 映画だけ観られれば充分なのに、メイキングのチャプターに余分なお金を払う必要は本当にあるのでしょうか? 同じことを成し遂げるのにやり方は沢山あると、あたかも過程にものすごい価値があるかのように主張する人もいますが、結果が同じであれば、そこに執着する理由はあまりないように思います。例えば、一人暮らしの家にたくさんのドライバーは必要ないはずです。
モノが少ないと探し物、整理整頓も楽になります。これは必ずここにある、という場所が一つだけであれば、それは必ずそこで見つかります。
「センチメンタルな気分になること」、「デジタル化出来ないこと」は、自分の人生にはほとんどない、と言ってしまっても良いライフスタイルを筆者は生きています。しかし、だからと言って、昔の写真を引っ張り出して来て懐かしんだり、この日は楽しかったな、と思ったりすることがないわけではありません。
昔来ていた服は昔来ていた服でしかありませんし、過去のモノは過去のモノです。確かに手放したくないものはいくつかあります。ベッドの下に置いているケースの中に入っている、DVDやCD、本などは側に置いておきたいと思いがちです。しかし、結局のところ、自分にとって意味があるのは、これらのモノによってもたらされた気持ちや思い出であり、モノそのものに対してではないのです。思い出はブログやフォトギャラリー、動画などの形で記録されていて、引っ張り出したい時にはいつでも見つけられます。
実際問題、モノを持つというのは負債を抱えることに似ています。形を持つものはいずれなくなります。電子データはいくらでもコピーでき、バックアップが可能です。電子データにしてしまえば、モノをなくしてしまうことを恐れずにすみます。自分の場合、家が火事になり、もし何か一つだけ持ち出せる状況になったとしても、もしかしたら何も持ち出さないことを選択するかも知れません。
モノを全く所有しない、というのは不可能であり、望ましい状態とも言い難いです。例えば、ベッドやトイレ、部屋がない状態で生活をするのは、かなり無理があります。モノがありすぎる状態は確かに考えものですが、何もない状態を目指すのは賢い選択とは思えません。よりシンプル=ベターではなく、ミニマリズムに固着しない視点から、もっと自分にとって「何が便利なのか?」、「何が快適なのか?」を追求していくべきなのではないでしょうか?
A Minimalist Lifestyle Does Not Make You a Better Person [Sam Hughes]
Sam Hughes (原文/訳:まいるす・ゑびす)