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印南敦史の「毎日書評」

気疲れが防波堤になる。「落語」に学ぶビジネスパーソンの処世術

author 印南敦史
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気疲れが防波堤になる。「落語」に学ぶビジネスパーソンの処世術
Photo: 印南敦史

「勝ち組」「負け組」などということばがありますが、そもそも「勝ち・負け」という二元論で人生を切り取り、安易に“格づけ”することは無意味。

仕事も人間関係も生き苦しい人のための 落語に学ぶ粗忽者(そこつもの)の思考』(立川談慶 著、WAVE出版)の著者は、そう主張しています。

以前にも著作をご紹介したことがありますが、立川談志の18番目の弟子。9年半もの前座修行期間を経て、二つ目に昇進(約4年後に真打ち)となった人物です。

落語とは業(ごう)の肯定。人間のどうしようもなさからビジネスを学ぶ

遠回りにも見えるプロセスを歩んできたからこそ、社会の枠組みや個人の生き方、働き方などが画一化され、そこから外れた人は生きづらさを感じざるを得ない風潮に危機感を抱いているのだそう。

なぜなら、「古典落語」の舞台である江戸時代の、古き良き日本人の姿や精神性に(噺を通してではありますが)長年親しんできたからです。

特に江戸庶民の社会は、現代よりもはるかに「多様性を許し、少数派さえも優しく受け入れる社会」でした。 つまり「はみだし者や“弱者”でも、息苦しくない社会だった」と思われるのです。

たとえば「パッとしない男」の代名詞、「八(や)っつぁん」や「熊さん」、馬鹿で呑気とされる「与太郎」、そそっかしくて失敗ばかりの「粗忽者(そこつもの)」(名前はつかないことが多い)……。(「はじめに」より)

現代社会では「負け組」のそしりを免れないような人たちも、コミュニティのなかで愛され、大事にされていたということ。

そこで本書では、「あわて者」「そそっかしい人」である「「粗忽者」に焦点を当て、自分らしく、心穏やかに生きていくための考え方を伝えようとしているわけです。

きょうは第1章「粗忽者に学ぶ『人との関わり方』」のなかから、「職場やSNSの人間関係に疲れている」を抜き出してみることにしましょう。

「疲れている」と自覚できていることに価値がある

お笑い現役世代の方と話していると、「本業」以外の部分で悩んでいる人が多いことに驚かされるのだと著者はいいます。職業人の本分である知識や技術の習得以前に、「人づきあい」の面で疲れている人が多いというのです。

しかしそれは、若いお笑い芸人に限らず、すべてのビジネスパーソンにあてはまることかもしれません。事実、「上司や先輩と顔を合わせるのが憂鬱」「取引先とのやりとりに気が滅入る」「SNS上のつきあいが面倒」「人間関係全般に疲弊している」というような声はよく聞きます。

とはいえ、そうした問題は昔から、若手の社会人にとっての“通過儀礼”のようなもの

だからこそ、「俺も、とうとういっぱしの社会人としての“洗礼”を受けるときがきたか」というくらいの軽いノリで、明るく乗り切ってみるべき。それが著者の考え方です。

楽天的であるようにも思えますが、いま多くの人が直面している状況は自身の人生の“修行時代”よりもはるかにマシだと感じるのだそうです。いまだから笑って話せるけれど、自分の修行時代の長さは、通常の人の数倍分に及ぶのだと。

大手下着メーカーの若手営業職として、3年間。 落語家として、前座時代を9年間半。

つまり人生のうち12年半は、修行中という身分でした(そのうえ結婚してから20年以上は妻に気を遣い続けていますから、人生の半分以上は修行期間ということになります。まあ、これは冗談でありますが……)。(19ページより)

営業マンにしても、落語家にしても、修行時代とは「周囲の環境との調整ができていない状況」なので、あえて厳しくしつけられるもの。いわば、「人づきあいでもまれること」自体が修行だともいえるわけです。

こういう話を聞くと、「『人間関係に疲れること』がビジネスパーソンにとっていったいなんの足しになるのか?」という疑問を抱く方もいらっしゃるかもしれません。しかし、この問いに対し、著者は明確に答えています。

不合理に見える修行時代をクリアするノウハウを身につけることで、その後の人生で何が起こっても、たくましく切り開いていけるようになるのです。

もちろん、パワハラやセクハラなど理不尽な要素が絡む人間関係には、声を上げるなり逃げるなり、なんとしてでも距離を置くべき。

でも「話のネタにできるレベル」「人に笑って話せる程度」の辛さであれば、プラスに捉えることをおすすめします。(19〜20ページより)

そもそも、「疲れている」と自覚できる自分自身の感性を、高く評価すべきだと著者は主張しています。なぜなら「人間関係での疲れ」を察知できるということは、感受性が鋭敏である証拠だから。

いい加減な気持ちで取り組んでいたり、適当に生きていたとしたら、疲れとは無縁でいるはず。あるいは過度に鈍感な場合や、傲慢に振る舞っている場合も疲れることはないかもしれません。しかし、それでは意味がないわけです。(18ページより)

「気疲れ」が防波堤になる

「上司は、俺に不信感を抱いているはずだ」「余計なひとことをいってしまったかも」「次に無理難題を吹っかけられたら、なんと答えればいいんだろう」などなど、些細なことが気になって眠れないということもあるかもしれません。

長い修行期間を経てきた著者もその気持ちはわかるそうですが、とはいえ、それくらい“心配性”でちょうどいいのだとも記しています。不思議なもので、小さな「気疲れ」を積み重ねていけば、突然大きなトラブルに見舞われるリスクを最大限に減らせるものだから。

「気疲れ」とは、他者から見れば「細やかな心遣い」にほかならないもの。日常的な「気疲れ」(心遣い)は、結果的に大きな「気疲れ」(トラブル)の防波堤になってくれるということです。(20ページより)

落語にもご注目くださいね。ここで私がおすすめしたいのは「唐茄子屋政談(とうなすやせいだん)」です。

現代風に超訳すると……。

「放蕩の果てに勘当された金持ちのドラ息子(若旦那)、徳三郎がおじに助けられ、唐茄子(カボチャ)売りになり、慣れない商いに骨を折った結果、最後は勘当が許される」という筋書きです。

「勘当けっこう。お天道様と米の飯は、どこに行ってもついて回る」。そう啖呵を切って家を飛び出したものの……。天秤棒を担ぐことすら難しかったボンボンの徳三郎が、額に汗して地道に唐茄子を売り歩こうとする姿に、励まされるはず。(21ページより)

「粗忽者」というキャラクターは、江戸と現代との橋渡しをしてくれる存在であるように思えてならない。著者はそう記しています。

「立派に生きるべき」「何者かになるべき」というような思い込みは、もう手放そうとも。本当の意味での多様性を理解し、受け入れ、ゆとりを持って生きていくためにも、本書を参考にしておきたいところです。

落語の世界の人気者、与太郎が教えてくれる「流れに巻き込まれてみる」ことの大切さ

Source: WAVE出版

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