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「中庸」であることを心がける。会話上手になるための具体的な方法

「中庸」であることを心がける。会話上手になるための具体的な方法
Photo: 印南敦史

一つの言葉には、語り手と聞き手の両方の人生が込められている。まず語り手が、自分の人生の意味を込めて言葉を紡ぎ出す。次に聞き手が、その言葉を受け止め、自分の人生に当てはめて解釈する。このようなやりとりが言葉を生み出す。だから「話し上手」とは、単に話術に長けているというより、絶えず自分を省みて成長し、他人に関心を傾けて理解し、その場の状況を読み取る目を備えた、総合的な力を指す。

つまり、「言葉の勉強」というのは、その境地に至ろうとして努力する過程のことだと言っていい。(「はじめに」より)

世界の古典と賢者の知恵に学ぶ言葉の力』(シン・ドヒョン、ユン・ナル 著、米津篤八 訳、かんき出版)の冒頭にはこう書かれています。

こうした考え方を軸に、本書では「ことばの使い方を根本から変える方法」を提示しているというのです。

そのために人文学の力、特に東洋と西洋の古典や賢者たちのことばを引用し、彼らの知恵を拝借しているのだとか。

なぜなら、人文学は他のどの学問よりもことばについて深く探求し、繊細にアプローチする分野だから。

人文学の知恵によってことばの使い方を根本から変えれば、自分自身を厳しい世の中から守ることができる。そう主張する著者のひとりであるシン・ドヒョン氏は、哲学を学び、東西の古典に親しんできたという人物。

ソウルで高校の国語教師を勤めながら人文学の勉強にもいそしみ、エッセイを執筆・発表しているユン・ナル氏とともにまとめたのが本書です。

きょうは「話し方」を扱った第7章「話術 会話のテクニック」に焦点を当て、「会話上手になるための具体的な方法」を確認してみたいと思います。

会話では「中庸」を心がけよう

喜怒哀楽のどの感情も起きていない状態を「中」と言う。

感情が起きてもそれが節度を保っていれば、これを「和」と言う。

子思

儒教の目指すところは「中庸」。「中」と「和」を合わせて中和といいますが、これは中庸と同義語と考えて差し支えないそうです。

中庸とは感情を「節度を保ちつつ」表すこと。つまり、怒るべきときに怒り、悲しむべきときに悲しむことをいうわけです。

感情をむやみに抑えつけて耐えるのは下策であり、ときと場合に合わせて適切に表現するのが本物の中庸。

したがって、まずは感情を適切にマネジメントする必要がありますが、それは感情を抑えつけろという意味ではありません。

感情のマネジメントとは、感情を内と外に向けて解き放つこと

内に向けて感情を解き放つことが瞑想と悟りであるとすれば、そのような感情を外に向けて表現することが中庸であるということです。

これを言葉に当てはめると、「中庸な話し方」となる。それは吐き捨てるように話したり、あるいは言いたいことがあっても飲み込んでしまったりする習慣を捨てて、ときと場合に応じた適切な言葉で自分の感情を表現することだ。(157ページより)

腹の立つ状況でもないのに怒りが込み上げるのなら、それは自分自身の問題。しかし本当に腹の立つことが続く場合は、ただ怒りを抑えてばかりはいられません。

したがってそんなときは、自分が怒っているということを、それとなく相手に知らせた方がいいのだと著者は考えています。

それが自分の精神衛生と、そして相手との関係の持続のためにもなるから。

もちろん怒りを過度に表現したり、極度に抑え込むべきではありません。感じた分だけ表現し、常識的にいって“怒っても無理のない状況”だということを、相手にわからせるのが賢いやり方だということ。

なお、これは怒りを表す時だけの話ではないそうです。両手を打って初めて音がするように、相手がいてこと会話は成り立つもの。

悲しい話には悲しい反応を見せ、うれしい話には一緒に喜ぶこと、それこそが人間関係と会話の基本姿勢だということです。(156ページより)

知っているふりをすることほど、大きな無知はない

知らないのに知っているふりをすることこそ、

最も非難されるべき無知ではなかろうか。

ソクラテス

会話していてなにか問題が起きたとしたら、その原因の多くは「無知」にあるもの

他人に対する無知、人間関係に対する無知、感情への無知、ときと場合による無知、ことばへの無知、会話のテーマに対する無知など、無知もさまざま。

しかもそこに「知らないくせによく知っているという思い込み」が加わると、問題はいっそう深刻になるものでもあります。

なにも知らない人は、特に問題にならないでしょう。そういう人は自分が「知らない」という事実を知っていて、下手にしゃしゃり出たりしないから謙虚になれるわけです。

問題は、生半可な知識しかないにもかかわらず、すべてを理解していると慢心している人。問題を起こして人を傷つけるのは、たいていそんな人たちだといいます。

ただし、完璧な知識を身につけない限り会話はできないということではありません。

すべてを知っている人などこの世には存在しませんし、すべてを知らないと話ができないなら、誰も口を開けなくなってしまうのですから。

本当に大切なことは、完全な知識などないことを認めて受け入れる謙虚さと、完全な知識を得るために努力を続ける姿勢だ。 意識的に謙虚になれというのではなく、謙虚になるしかないから、謙虚になるのだ。

自分の無知を知れば、言葉づかいも自ずと謙虚になる。「命令」よりも「お願い」が、「批判」よりも「助言」が、「演説」よりも「傾聴」が、より謙虚な言葉だ。(162〜163ページより)

自分の無知を悟るためには、論理的に話す訓練が必要。無知は、論理のなさから生まれるものだからです。

ちなみに論理的に話す習慣を身につけると、話の途中でふとことばに詰まることがあるそうです。

理由は、「自分はいま、よく知りもしないのに、なにを自信たっぷりに話しているのか」と反省するから。(161ページより)


大樹が枝を伸ばすために深く根を張るのと同じように、多様な話術を身につけるには基本的な話法を学ぶ必要があると著者は主張しています。

基礎をおろそかにしたまま華やかな会話のテクニックだけを覚えたとしても、すぐに底が割れてしまうものだから。

だからこそ、本書を活用することには大きな意味があるといえるのではないでしょうか。普遍性の高い内容でもあるので、常に手元に置いておきたい一冊です。

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Source: かんき出版

印南敦史

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