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自分の“闇”にフォーカスすれば、己の存在意義を見出せる。「障害」とともに生きるカウンセラーが教えてくれること

自分の“闇”にフォーカスすれば、己の存在意義を見出せる。「障害」とともに生きるカウンセラーが教えてくれること
Photo: 印南敦史

私はカウンセラーという仕事に加えて、福祉事業を営むNPO法人を運営しています。障害のある方たちの通所施設や訪問介護事業、心の相談事業(カウンセリング)等がおもな事業です。

カウンセラーであり、経営者であり、夫であり、父親である私が、ひとつだけ他のカウンセラーや経営者と決定的に違う部分があります。

それは、「超重度障害者」であるということです。

私は、生まれつき脊髄性筋萎縮症という現代医学でも治療法のない難病を抱えています。

生まれたときから自分では体を動かすことがまったくできません。(中略)体中の筋肉がどんどん萎縮し、やがては自分で話すことも呼吸をすることもできなくなっていく病気です。

幼い頃通院していた東京大学付属病院では、「5歳までの命」と告げられたそうです。両親は、とにかく普通の子と同じように育てようという気持ちで私を育ててくれました。

両親や弟妹だけではなく、親戚や周囲の人たちのあふれる愛情を受けて、私は5歳どころか、48歳になるいまも人生を楽しんでいます。(「はじめに」より)

こう考えれば、もう少しがんばれる』(池谷直士著、実務教育出版)の著者は、本書の冒頭にこう記しています。

さらにもうひとつ印象的なのは、健常者でもなかなか叶えられない大きな夢をどんどん叶えることができているのは、「どんな場面でもめげない考え方」を習慣化することができているからだということ。それを習慣化することは、著者のみならず、多くの人にとっても同様に大切なことだというのです。

本書を読んでもらえればわかりますが、私は決して強い人間でも、順風満帆な人生を送ってきたわけでもありません。

そんな私が自由な心で自由に生きたいように生き、やりたいようにやれているのですから、当然みなさんも同じようなことができるのです。(「はじめに」より)

そのような考え方に基づいて書かれた本書は、著者の言葉を借りるなら「もっと自由に、自分らしく、人の目を気にせずに自分の人生を堂々と生きていきたい」という人たちに向け、「こう考えれば、もう少しがんばれるよ!」という実践的な方法について書かれたメッセージ集。

きょうはそのなかから、第4章「自分の“闇”が武器になる」に注目してみたいと思います。

障害者の「害」の字を変えてもなにも変わらない

最近は「障害者」の「害」の字を「碍」「がい」と表記することが多くなってきました。「害」という字から連想するイメージが悪い、という理由はわかりますが、私の個人的な見解としては、「そんなもん、どちらでもよい」のです。(189ページより)

そう主張する著者は、いまでも「障害者」と表記しているそうですが、その理由は2つあるのだとか。

まず1つは、「害」という字を変えたところで、世の中の障害者に対する意識はほとんど変わらないから。そしてもうひとつは、「害」という一部分を変えることで余計にスポットを当ててしまい、自分たちの方がマイナスイメージを持っていることを露呈しているから。

「障害者」の「害」の字を変えるのであれば、「ハゲ」「デブ」「ブス」「チビ」といった身体的欠点を嘲笑する言葉だって変えなければいけないのではないか? 自分が「キングオブ障害者」だからこそ、そう胸を張って言えるという著者の言葉には強い説得力を感じます。

障害のある方も平等に対等に接してほしいという思いを本気で持っているのであれば、細かいことを健常者や社会に求めすぎないことです。(190ページより)

加えて、健常者が「障害がある人たちのために力になりたい」「対等につきあっていきたい」と思う最大の動機となるものは、次の3点だとも指摘しています。

1. 障害があるのだからやってくれて当たり前、気を使ってくれて当たり前、特別な対応をしてくれて当たり前と思っていない。素直に感謝の気持ちを表現できる障害者と出会った場合

2. 障害がある人と知りあったことで生きかたが変わった、障害がある人から大事なものを与えられたという経験ができた場合

3. 決して健常者になろうとせず、障害を隠れ蓑にせず、卑屈さや同情心を煽って健常者をコントロールしようとしない健常者と出会った場合

(192ページより)

よくいわれる「がんばっている」「感動を与えてくれる」というようなことではなく、はっきり言ってしまえば、「自分たちは障害者だ! 私たちにも健常者と同じ権利がある!」と“叫ばない人”たちに対して健常者は心を開き、本気で協力したいと思うものだということ。これは、著者が出会ってきたほとんどの友人、知人たちの率直なおもいなのだそうです。

いくら呼び方を変えても、法律で縛ったとしても、人の理解には至らないもの。それよりも、健常者が障害者に対して過剰に気を使わず、もっと言いたいことを言いあえるような雰囲気に持っていくことが大事なのではないかということです。(189ページより)

自分にある“闇”こそ最高の武器になる

自己の「存在意義」について悩む人は少なくありません。人は「誰かのためになっている」「社会に役立っている」という実感がない状態では、充実感を持って生きられない存在。だからこそ、それは当然なのかもしれません。

では、「存在意義」とはどういうものなのでしょうか? このことについて著者は、「存在意義」とは、「自分はなにをするために生まれてきたのか?」という問いかけに対する答えだと主張しています。

自分の「存在意義」を知るためには、二つのアプローチが必要です。

ひとつは、「人生の光の部分」にフォーカスすること。

もうひとつは、「人生の闇の部分」にフォーカスすることです。

(195ページより)

光の部分にフォーカスするとは、うれしかったことや感動した出来事に影響を受けて、そこから自分の存在意義を見出していくアプローチ。

たとえば、「中学生時代に尊敬できる担任の先生と出会い、学力が向上して充実した学生生活を送ることができた。その先生のおかげで、生きることが楽しくなった。だから自分も、学校の先生になってたくさんの生徒を支援していきたい」という思いから学校の先生になった人は、自分の人生の「光の部分」から存在意識を見出したことになるわけです。

一方、闇の部分にフォーカスするとは、悲しかったことやつらかったこと、心を痛める出来事に影響を受け、自分の存在意識を見出していくアプローチ。著者の場合は、こちらの「闇の部分」にフォーカスすることによって自分の存在意義を見出すことができたのだといいます。

著者が子どものころはいまの世の中とは違って、障害者はできるだけ目立たないように、人に迷惑をかけず、邪魔にならないようにひっそりといきていくことが暗黙のルールのようになっていたのだそうです。

近所の子どもたちと一緒に遊んでもらえないといったように、いつも排除されるか、逆に特別扱いされるかのどちらかで、子ども心にも強い疎外感を感じていたといいます。外に一歩出れば好奇の目にさらされ、「気持ち悪い」などといった心ない言葉の攻撃を受けることも日常茶飯事。

だからこそ、自分の障害を恨んだことも、好きなことや楽しいことが自由にできるまわりの人たちを妬んだこともあったそうです。そのため著者は、自分自身の根底にある最も強い闇とは、「寂しさ」なのだと記しています。

そして、「どうすればみんなが楽しくすごせるようになるんだろう?」と考え続けていたのだといいます。

自分が創りだす世界は差別や排除がないものにしよう。ひとりひとりがそれぞれ与えられたものを最大限に生かし輝くことができる世界を創りたい! 誰もが寂しさを感じずに済むような世界を創造していきたい!

そんな思いが原動力となって、いまの自分があります。

心を激しく痛めるような闇を経験してきたからこそ、どうすればみんながその闇から解放されるのかということもある程度わかりますし、光に変えていくこともできるのです。(197ページより)

介護事業、カウンセリング事業、経営者という役割のすべてにおいて、著者は自分が理想とする世界を創りあげようとしてきたそうです。そして徐々に、そういった世界を多くの人と共有し、表現できる状態になってきたのだとか。そして、そんな世界を創りあげることこそ、自身の「存在意義」だと思っているのだといいます。(194ページより)




本書から伝わってくるのは、障害をものともしない著者の力。しかしそれは本人もいうように、“闇”を最高の武器にしているからにほかなりません。ここで重要なのは、誰にも多かれ少なかれ、闇の部分はあるということ。つまり障害のあるなしに関わらず、著者のように闇を武器にできれば、誰しもがその結果として“力”を手にすることができるはずだということです。

なんらかの壁にぶち当たっている方にこそ、ぜひとも読んでいただきたい1冊です。

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Photo: 印南敦史

印南敦史

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