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なぜ「宗教性」が大事なのか。いま改めて、マインドフルネスのオリジンを理解しよう

なぜ「宗教性」が大事なのか。いま改めて、マインドフルネスのオリジンを理解しよう

マインドフルネスに関する書籍は多数出版されていますが、きょうご紹介する『光の中のマインドフルネス――悲しみの存在しない場所へ』(山下良道著、サンガ)のアプローチは、それらとは少し違っているかもしれません。

著者は、鎌倉一法庵住職。大学卒業後に曹洞宗僧侶となり、アメリカのヴァレー禅堂における布教などを経て、2001年にミャンマーで具足戒(出家した修行者が遵守すべき戒)を受け比丘(所定の戒を受けて仏門に入った男子修行者)になったという経歴の持ち主です。現在は「ワンダルマ仏教僧」として鎌倉一法庵を拠点に国内外で坐禅指導を行っているそうですが、そんな立場から、「マインドフルネスは宗教ではありません」という現代の主流の考え方に疑問を投げかけているのです。

この『光の中のマインドフルネス』は、これまで描写してきたような「現在のマインドフルネスを巡る状況」に、なんとなく違和感を覚えている人のための本です。マインドフルネスが、ビジネス戦士をつくるためだけに利用されていて、いいのだろうか?という疑問を持っている人のための本です。仕事の効率が上がってさらに猛烈に働いて、多少給料が上がることも良いけれど、でももっと大事なものを探求するのが、本来のマインドフルネスではないのかと、薄々感じている人のための本です。(「はじめに」より)

こう主張する著者には、「マインドフルネスは宗教ではない」という現代の主流の考え方に賛同できない人に向け、マインドフルネスに逆に宗教性を取り戻そうという願いがあるのだとか。しかし宗教的な価値観を持たない人にとっては、そこが気になってしまうことも事実であるはず。

だからこそ知りたいのは、なぜマインドフルネスにとって「宗教性」が大事なのかということです。しかしそれは、マインドフルネスのオリジンを理解すれば、すぐにわかるというのです。

マインドフルネスのそもそもの始まりは、どこにあるのでしょうか? それは今から約二五〇〇年前のインドのブッダガヤという小さな村が舞台です。村の菩提樹の木の下で座ってらした仏陀が発見されたものこそが、マインドフルネスの最初の最初だったのです。仏陀によって発見されたその真理は、インドの古代語であるパーリ語で「サティ」と名付けられました。自分が到達したその真理を人々とシェアをするために、ブッダガヤ村からその頃のスピリチュアルな首都であったバラナシに移られて、全世界に向けて発表されました。「四諦・八正道」といわれるものです。その中核をなすのが八正道の七番目の「サンマー・サティ」です。即ち「正しいマインドフルネス」でした。漢訳は「正念」になります。(「はじめに」より)

つまりマインドフルネスとは、仏教の教えの一部などではなく、最初から仏教そのものだということ。そんなオリジンを理解することが、マインドフルネスの本質を理解するためには大切だという考え方です。その点を踏まえたうえで、第2章「マインドフルネスはシンキング(思考)なのか」から、いくつかの要点を抜き出してみたいと思います。

マインドフルネスとはなにか

著者はマインドフルネスに出会って以来、どうしようもない違和感をずっと抱き続けてきたのだそうです。初めてマインドフルネスという言葉に出会ったのは、曹洞宗派遣の開教師として滞在した1980年代末のアメリカ。当時は西洋におけるマインドフルネス運動の最初期だったといえるそうですが、「いつもマインドフルでいなさい」という教えに接しても、「そんなもの、日本の禅の道場では聞いたことないぞ」という反応しかできなかったというのです。

そして、ここ数年のマインドフルネスに対する日本の仏教者の反応は、当時の著者にとても近いのだともいいます。著者が30年前に抱き、そして現在、多くの禅僧たちが抱いている違和感とは、「マインドフルネスって、なんやかんや言ってもシンキング(思考)じゃないの?」というものなのではないかということ。

マインドフルネスとは、今、自分に起こっていることなどを、好き嫌いや判断なしにそのまましっかりと認識すること、気づくことです。これがまず最初に言われる定義です。(50ページより)

呼吸に対するマインドフルネスであれば、息を吸っているときに、吸っていることに気づいている。息を吐いているときに、吐いていることに気づいているということ。しかし、その「呼吸に気づく」「呼吸を観察する」というのは思考ではないかという疑問を前にして、多くの禅僧たちが戸惑っているというわけです。

シンキング(思考)にはそれをする主体が必要で、それは「我」なのではないか。我がある状態より、それを手放して無我になることが仏教の狙いではないのかということ。特に「只管打坐(余念をまじえることなく、ひたすら座禅すること)を看板にしている禅僧たちにすれば、「マインドフルネスってシンキング、反省的自己意識そのものだよね。我々はそういう自己意識の以前を目指しているのだ」と思うのは当然だということです。(48ページより)

マインドフルネス否定の論理構造

「マインドフルネスはシンキングだからだめだよね」という人たちは、だいたい次のような考えの筋道をたどるものだと著者は指摘しています。

最近、よくマインドフルネスと聞くけどそれは何? 禅の道場では聞いたことないけれど。…それを知るためにヴィパッサナー(筆者注:仏教で真理とされている「無常」「苦」「無我」を洞察する瞑想)の何日間のコースに参加してみる。

ヴィパッサナーのコースの中で、「私」と呼吸や身体の感覚などの「瞑想の対象」が二つに分かれていた。つまり主客に分かれていた。

ex.「私=主体」が「呼吸=客体」を見ている

なるほど、ヴィパッサナーというのは主体と客体を分けるものなんだ、と理解する。

主客が分かれた世界は、座禅で乗り越えるべき対象だよね、という結論になる。

(51ページより)

ほんの少しだけ経験してみて、表面的な実感で論理を組み立て、「マインドフルネスとはこういうものだ」と決めつけてしまっているということ。だから論理がおかしくなるというのです。それは、30年前の著者が、なんの努力をしないまま感じていたことと同じだといいます。(51ページより)

瞑想上の「本気」

マインドフルネスとはなにか、ヴィパッサナーとはなにかを知ろうとするなら、一回ぐらいヴィパッサナー瞑想のコースに参加するだけでは不十分。本気で何年も何十年もやらなくては無理だと著者は主張します。ヴィパッサナーのように長い伝統のあるものを理解しようと思ったら、ヴィパッサナーと添い遂げるくらいのつもりでないといけないというのです。だから、興味本位で目先の変わった方法をやったり、いろいろなことに手を出すことには賛成しないのだそうです。

切実な理由からヴィパッサナーをやる必然性はないのに、単なる興味本位で、ヴィパッサナー瞑想コースに参加するとどうなるでしょうか。当然、深いところに入っていけません。深いところに入っていけなかった自分のその経験から「ヴィパッサナーは、結局は主体と客体を分けるものだよね」という結論を出して「マインドフルネスはたいしたことない」となってしまう。(53ページより)

本気にならないまま軽くマインドフルネスに触れ、誤解したままになるのは惜しいこと。しかし、そのあたりにマインドフルネスの持つ不思議さがあるともいうのです。仏教の核心といわれるマインドフルネスに表面的に触れると、あまりたいしたものとは思えない。なぜそれが、仏教の最重要な教えであるのかがぴんとこない。それほど、マインドフルネスは表面的には誤解されやすいもの。だからこそ、本質を知るためには少し遠回りをする必要があるというわけです。(52ページより)

キリスト教的ヴィパッサナーと「霊操」

ここで登場するのは、著者の知人である柳田敏洋さんというイエズス会の神父さん。この方は「霊操(16世紀イエズス会の創立者イグナチオ・ロヨラが提唱した、信仰の道を歩むための魂のトレーニング)」の指導を続けるなかで、どうしても超えられない壁を感じていたのだそうです。

それは、エゴの壁。「おれ」がなにかをしようとする壁。それではだめだと知りながらも抜け出せないため、この難問の突破口を求めてインドでヨーガをし、その後、インドで10日間の「皮膚感覚を観察するヴィパッサナー」を実践したのだとか。その結果、だんだん好き嫌いの主体であるエゴが自然と落ちていったというのです。

私自身の体験では、最初はエゴの中で自分の感覚を見ていて、「私が皮膚感覚を観察している」というところから出発しながらも、これを徹底し気づきが深まっていくと、感覚という対象を観察する距離が縮まっていき、さらに「観察している私」が抜け落ち、最終的にそこには「感覚」と「気づき」だけがあるという世界が開けてきます。

いわば「感覚そのもの」と「気づき」が何の媒介もなしに接してあるという状態、しかも気づきが感覚そのものに同化してしまうのではなく、あくまでも気づきとして目覚めているということです。これは目覚めた意識そのものの世界で、「私」意識が生じる以前の根元意識の場のありようと、私なりに言語化しています。

わたしはこの根元意識をいわゆる「真の自己」と理解していますが、この根元意識はエゴのつくり出す自我世界を越えて広がる領域であると体験的に感じています。この根元意識の位置づけですが、私は「世界の只中に内在化された超越の場」ではないかと思います。(56ページより)

著者は、この「エゴ」から「根元的意識」への転換部分にこそ、マインドフルネスの本質があると主張します。(54ページより)




本書は決して、マインドフルネスを通じて仏教的な価値観を押しつけようとするものではありません(もしもそうだったとしたら、ご紹介することはなかったでしょう)。重点は、表層的にではなく、本質的にマインドフルネスを理解すること。そのためには、オリジンである仏教の考え方をも知っておく必要があるというわけです。

だからこそ、正確な知識を身につけておくという意味においても、読んでおくべき価値はありそうです。そこから先、どう進むべきかは、自分自身で考えるべき問題だからこそ。

Photo: 印南敦史

Photo: 印南敦史

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