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一般的な不幸は幸せの前半分? 「ぜんぶ受け入れる」ということ

一般的な不幸は幸せの前半分? 「ぜんぶ受け入れる」ということ
Photo: 印南敦史

ありがとうの魔法』(小林正観著、ダイヤモンド社)の著者は、2011年10月に62歳という若さで逝去された作家。学生時代から人間の潜在能力やESP現象、超常現象に興味を持ち、長きにわたり心学などの研究を行ってきたという人物です。

生前に多くの著作を残してきたことでも知られていますが、2015年の『ありがとうの神様』、2016年の『ありがとうの奇跡』に次ぐ本書はその最新刊。著者が40年間の研究を通じ、いちばん伝えたかったのだという「ベスト・メッセージ集」の第3弾となっています。

ところで、40年にわたって研究を続けてきた結果、「幸せ」についてわかったことがあるのだと著者は記しています。

「今、足りないものを探して、手に入れること」ではなくて、「自分がすでにいただいているものに感謝し、自分が恵まれていることに気がつき、嬉しい、楽しい、幸せ…、と生きていることなのです。

そして、そのために実践することは…、

「思いを持たず」、よき仲間からの「頼まれごと」を淡々とやって、どんな問題が起こっても、すべてに「ありがとう」と感謝する(受け入れる)こと。

「そ・わ・かの法則(掃除・笑い・感謝)を生活の中で実践することであり、「ありがとう」を口に出して言い、逆に、「不平不満・愚痴・泣き言・悪口・文句」を言わないこと。

すると、神様が味方をしてくれて、すべての問題も出来事も、幸せに感じて、「よき仲間に囲まれる」ことになり、「喜ばれる存在」になる。

これこそが「人生の目的」であり、「幸せの本質」なのです。

(「はじめに」より)

こうした考え方を軸とした本書から、第2章「ぜんぶを受け入れる」に焦点を当ててみましょう。

「悩み・苦しみ」という泥水が濃いほど、「幸せ」という大輪の花が咲く

著者によれば、お釈迦様の台座が「蓮の花」であることには理由があるのだそうです。蓮の花は、真水ではなく、泥水の中からしか立ち上がってこないといわれているというのです。しかも、泥水が濃ければ濃いほど(水が汚れているほど)、蓮の花は大輪の花を咲かせるのだとか。

泥とは、人生になぞらえれば「つらいこと」「悲しいこと」「大変なこと」。そして蓮の花とは、「人生の苦難の中で、花を咲かせること」。さらに、その花の中の身が「悟り」。つまり、「つらく悲しい思いがなければ、人間は悟ることができないのだ」ということを、お釈迦様は教えたかったということ。なお、蓮の花には、次の3つの特徴があるそうです。

【1】「花果同時」(かかどうじ)

花と果実が同時に開く(実る)ことです。花が開いたときに、中にはすでに果実が存在しています

【2】「汚泥不染」(おでいふせん)

蓮の花は、どんなに汚い泥の中から立ち上がってきても、その汚れに影響を受けず、とてもきれいに咲いています

【3】「蓮にあだ花なし」

「あだ花」とは咲きそこなったり、きれいに開かなかった花のことをいいますが、蓮の花には、あだ花がないそうです

(86ページより)

泥水から立ち上がってきたとは思えないほど、蓮の花は美しく咲くもの。どんな悩み・苦しみ・大変なことの中から立ち上がってきても、そこで泥を突き抜けて花を咲かせた人は、美しいもの(悟り)を手に入れるという考え方です。

「法華経」は、お釈迦様が蓮の花のありようについて残したひとつの「経文(きょうもん)」。お釈迦様にとって、蓮の花のありようは「人間のありよう」を教えるためのものであったのかもしれないということです。つまり、「悲しさ、つらさ、大変なことがない限り、美しい花を咲かすことができない」ということを、お釈迦様は後世の人に伝えたかったのだろうと著者は分析しています。

たしかに「私たちには泥水が必要である」と思うことができれば、不幸や悲劇といわれていることも、実は自分にとっては嬉しく、楽しく、幸せで、素晴らしいことだということに気づくことができるのかもしれません。(84ページより)

1日中、汗をかいて仕事をすれば、「冷たい水の一杯」でも幸せとなる

茶碗は誰が見ても茶碗ですし、お皿は誰が見てもお皿です。しかし、同じことは「幸せ」については言えません。Aさんにとっては「幸せ」な出来事だったとしても、BさんやCさんにとっては「幸せではない」可能性もあるわけです。そして40年間にわたり研究を続けてきた著者の結論は、「『幸せ』という名の絶対的な名称を持つ現象は、地球上に存在しない」というものなのだそうです。

にもかかわらず、なぜ「幸せ」という言葉が存在しているのでしょうか? この問いに対して著者は、「それは、『幸せ』という現象が存在しているからです」と記しています。「幸せという名の現象は存在しない」にもかかわらず不思議な気もしますが、つまりはこういうこと。

「幸せ」という名の絶対的な現象は、地球上に存在しない。しかし、「幸せ」という名の現象が存在するときがあります。どういうことかというと、「私」が「幸せ」だと感じた瞬間に、「幸せ」という現象があらわれるのです。「私」が「幸せ」だと決めたとき、それが、その人にとっての「幸せ」になります。(94ページより)

いわば、「幸せ」という現象は個人にのみ帰属するものであり、他人が口をはさんだり、意見を言うべきものではないということ。「幸せ」は、「幸せを感じた人にのみ存在する」と言う構造になっているということです。

たとえば1日中汗をかいて仕事をした人が、冷たい水をひと口飲んで、「あー、幸せ」と思ったとしたら、その人にとってのみ、「幸せ」が帰属するわけです。当然、のどが乾いていない人にとって、それは「幸せ」ではないでしょう。1日中汗をかいて仕事をしていたからこそ、冷たい水のひと口に「幸せ」を感じたというわけです。

「幸せ」を感じようと思えば、100や200の幸せが身のまわりにあることに気づくと著者はいいます。なんであれ、自分が「幸せ」だと思えば、すべてが「幸せ」になるはずだということ。目の前の現象についてなにも感じなければ、ただ通り過ぎるだけの現象にすぎません。しかし、その現象を「幸せ」だと感じたら、その瞬間に幸せになるという考え方。「幸せ」が見つからないと嘆いている人は、「幸せ」を感じる心を動かしていないだけかもしれないというのです。(92ページより)

「不幸」と「幸せ」はワンセット。「不幸」は「幸せ」の前半分

「幸と不幸の構造」について考えているうちに、著者はひとつのことに思い至ったのだそうです。それは、「幸と不幸は『たまご構造』である。それも、ゆでたまごではなく、『生たまご』なのではないか」ということ。どういうことでしょうか?

たとえば「おいしい」という概念の前段階として、「空腹だ」という概念が存在しています。つまり「空腹」という現象がなければ、「おいしい」という現象も存在しないということ。同じように、「のどが渇いた」という現象がなければ、「のどの乾きが潤せて、うれしい」という現象も存在しないわけです。

しかも空腹であればあるほど、おいしさは増していくもの。逆に空腹の程度が小さければ、おいしさの程度も小さくなります。空腹の量とおいしさの量は、明らかに連動しているということです。「おいしい」という幸せを味わうためには、「空腹」という現象(一般的に不幸と考えられている現象)を味わわなければならない、ということだというのです。

さらに私は、「空腹」という現象と、「おいしい」という現象は、ここに独立しているわけではない、と考えるようになりました。

「1+1=2」という形で存在しているのではなく、半分と半分、「2分の1+2分の1=1」として存在しているように思えるのです。

「空腹」と「おいしい」はワンセットであり、足してひとつになる。つまり、「空腹」という一般的な不幸は、「おいしい」という幸せの「前半分の現象」だとも考えられるのです。(102ページより)

そして「一般的な不幸というものは、幸せの前半分である」という構造は、生たまご(鶏卵)の構造に似ていると著者はいいます。

空腹=たまごの白身

おいしさ=たまごの黄身

(102ページより)

生たまごは、割って器に入れたとき、白身と黄身が分離しています。しかし、かき混ぜると境界線がなくなって溶け合います。そして一度かき混ぜると、それをふたたび白身と黄身に分けることはできません。なぜなら白身も黄身も、本質は同じものだから。だからこそ、完全に混ざり合ってしまうというのです。

幸も不幸も存在しておらず、事実や現象はひとつだけ。ただ、それを受け止める側の「心」が、その現象の価値を決めているということ。つまりは捉え方の違いで、目の前の現象は「幸」にも「不幸」にもなるわけです。だとすれば、いままで「不幸」と思っていたことを「幸せの前半分かもしれない」と捉えてみると、世の中が違って見えるかもしれない。著者はそう記しています。(100ページより)


本書には、「神様」「宇宙」などの言葉が頻繁に登場します。そこが共感できるか否かのポイントになるかもしれませんが、それは、さまざまな分野の研究を続けてきた結果なのでしょう。そこで、気持ちをフラットな状態にして受け入れてみてはいかがでしょうか。

印南敦史

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