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印南敦史印南敦史  - ,  06:30 AM

美術鑑賞に必要なのは、「楽しめる心」を解き放つこと

美術鑑賞に必要なのは、「楽しめる心」を解き放つこと

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美術館の雰囲気は好きだけれど、充分に楽しめているかは疑問が残る。あるいは、「行ってみたいけれど知識がないから」と躊躇してしまう。そんな人は少なくないと思いますが、そこでオススメしたいのが、『芸術がわからなくても美術館がすごく楽しくなる本』(藤田令伊著、秀和システム)

鑑賞者の立ち位置を大事にしながらアートの愉しみを広げる活動に尽力しているというアートライターが、「見る力」の養い方や、美術館の楽しみ方を紹介した書籍。著者の言葉を借りるなら、美術館という素敵な箱を通して、自分の感性やセンス、ものの見方を磨く方法を探っていくことを目的としているのだそうです。たとえば、こんな具合。

・美術館のカフェに座ると「人生の景色」が見えてくる
・金曜日の夜に美術館へ行くと、素の自分に出会える
・美術館を早歩きで歩くと、好きな作品が見つかる
・イヤホンガイドを上手に活用するちょっとしたコツ
(「Prologue 用事がなくても美術館を訪れる時代がきた」より)

ポイントは、これらのどれについても、芸術に関する深い知識は必要ないということ。そしてビジネスの世界ではいま、単純な知識より、見た映画やアート、聞いた言葉などから得られる「教養」が注目されているのだともいいます。つまり感性やものの見方を育てるきっかけとして本書を活かせば、そうした「教養」も無理なく身につけられるというわけです。

とはいえ、「それでも不安」という方はいるはず。そこで第2章「美術館へ行く前に大きな誤解を解く」に注目してみましょう。


美術が「わからない人」など存在しない


美術に馴染みのなかった人は、「自分には美術はわからない」敬遠しがち。しかし、美術とは本来、「わかる」とか「わからない」というものなのでしょうか?

美術が「わかる」とは、ひとつには美術に関する知識が豊富なことをさします。「モネは印象派を代表する画家で、絵の具を混ぜない筆触分割という画法で作品を描いた」というようなことを知っていると、「美術が『わかる』人だな」とみなされるわけです。そしてもうひとつ、「見る眼」があることを美術が「わかる」という場合もあります。作品をひと目見るやその価値を鋭く見抜き、見定めることができれば、「わかる」人ということになってしまうということ。

でも、ここで考えてみるべきは、そもそも私たちはなんのために美術を見るのかという点です。少なくとも普通の人は、研究のためでも作品売買のためでもなく、もっぱら「楽しむ」ために美術を見るはず。絵や彫刻を見て「おもしろいな」と思ったり、「すごい!」と感動したり、なにかピンとインスピレーションを感じたりすることを、私たちは楽しんでいるということです。

しかし、「楽しむ」ために必ずしも知識は必要ではないでしょう。「見る眼」も、普通の人が普通に美術を楽しむ際には、それほど関係ありません。むしろポイントは、人それぞれの価値観に作品がピタッとくるかどうか。つまり作品に対する自分なりの価値観を見いだすことができれば、それでよいということ。そう考えると、「美術がわかる」とは、「自分なりの価値観で美術を見て楽しむこと」だとわかるはず。知識がなくても問題はなく、「見る眼」も自分の価値観で決めればいいということ。だから、仮に知識がなくても、臆することなく美術と向き合っていけばよいのだと著者は記しています。(62ページより)


料理にたとえると解ける美術の誤解


「でも、その自分の価値観がわからないから困っているんだ」という反論に対して、著者は食べものを引き合いに出して説明しています。

好きか嫌いかは別として、私たちは食べものを食べると、なんらかの味を感じます。美術鑑賞も同じこと。なにかの作品を見たら、好きか嫌いか以前に必ずなんらかの印象を抱いているはず。そして、その印象が自分の価値観につながるのだといいます。「自分の価値観がわからない」という人は、自分が作品を見て感じた「味」と世間一般の評判が合致しないから、そう思い込んでいるだけのこと。ピカソの絵のどこがいいのかわからない。そのギャップのために「自分の価値観がわからない」となってしまう場合があるのではないかということ。

しかし、どれだけ世評の高い作品であっても、それを好きになれなくてもなんの不思議はないのだと著者は断言しています。好きな味が人それぞれであるのと同じように、美術の好みの人それぞれ。だからこそ、自分の「味覚」と世評が合わないことを機にする必要はまったくないということ。

「それでも、そもそも私はなにも感じないのだ」と食い下がる人に対して著者は、「本当になにも感じていないのでしょうか?」と疑問を投げかけています。なにかの作品を見て感動することもなければ、「いいなあ」と思うこともない。しかしそれは、「いいなあ」とは感じなかったということではあるはず。つまり、"「これはいい!」「素晴らしい!」とは感じないという感じ方"をしているのだということ。「ピンとこない」「ちっともいいと思えない」というのも、自分が感じた「味」。自分にとってその作品は「おいしい」ものではない「味」だということ。しかし世の中には、「おいしい」と感じることのできる作品は必ずあると著者。(66ページより)


「見たまま、感じたまま」を大切にする


美術鑑賞というと、なにか難しい解釈が必要で、豊富な知識と高度な洞察力がないと務まらないと思ってしまいがち。場合によっては、それで劣等感を抱くこともあるかもしれません。しかし著者は、「見たまま、感じたまま」でまったくOKだといいます。しかも、そこにはちゃんとした根拠があるのだとも。「見たまま、感じたまま」というときの、「見る」や「感じる」をしているのは自分自身。ということは、「見たまま、感じたまま」とは少なくとも自分の眼で見て、自分の感性で感じているということ。これは、とても重要なポイントだといいます。つまり、そこには「自分」があるということ。

本などから得た知識を語ることにくらべると、「見たまま、感じたまま」には少なくとも「自分」があります。たとえ難しいことを知らなくても、本当に心を揺さぶられたり感激したりするのであれば、それは「自分」の心が反応しているということ。それこそが、価値ある鑑賞体験だという考え方。

レベルやクオリティの違いよりも、「自分」が核になっていることの方が大切なのです。「自分」ながければ、いくら絵や彫刻を見てもたいした意味はないということで、「見たまま、感じたまま」は意義ある鑑賞の出発点であるというわけです。(70ページより)


「正しい」「間違っている」から解放される


美術鑑賞では「間違った見方」をしてはいけないし、そんなことは恥ずかしいと思われている場合があるもの。しかし、「正しい見方」とはどういう見方でしょうか? 一般的な尺度で考えると、専門家の多くが認め、支持する見方が「正しい見方」=「定説」だということになるかもしれません。

でも定説とは、こちらの「価値観」や「味覚」とは関係なく、いつしか誰かが構築したものにすぎません。だとすれば、「正しい見方」をするということは、いつしか誰かが構築した「価値観」や「味覚」に合わせた見方をするということになります。でもそれでは、自分の「価値観」や「味覚」を放棄し、他人の見方を一方的に受け入れることになってしまう。それが、本当の意味での楽しい美術体験とはならないはずです。

問題は、「正しい見方」が本当に正しいという保証がどこにもないこと。長いあいだ定説とされてきたことが、実は間違っていたということが、美術の世界ではしばしば起こるもの。「正しい」とされることも、本当に正しいかどうかはわからないということを念頭に置いておく必要があるわけです。

事実、今日の美術鑑賞は「オープンエンド」(唯一の正解がない状態)なものと考えられているそうです。つまり、見る人それぞれの答えがあればそれでよいということ。むしろ重要なのは、自分にとってどんな意味があるかということ。「正しい」や「間違っている」に捉われず、「楽しめる心」を良き放つことの方が大切だということです。(74ページより)


「おばあさんと仏教」がお手本


著者はこの章の最後で、仏像の展覧会での体験談を紹介しています。ひとりのおばあさんが、展示されていた仏像の足元にうずくまり、仏像を見上げては手を合わせて拝み、泣き崩れていたというのです。その光景に驚き、その場に釘付けになってしまったという著者はこのとき、おばあさんと仏像との間には誰にも介入できない特別な絆が結ばれているように思えたそうです。

折しも当時の著者は、美術鑑賞力を向上させようと、懸命に美術の勉強をしていた時期。知識を身につけ、作品や作家について知れば知るほど鑑賞力はアップすると考えていたというわけですが、その光景を目の当たりにしたとき、自分が根本的な間違いをしていたのではないかと感じたそうです。それが、「美術を見るって、いったいどういうことなのだろう?」と改めて原点を問いなおすきっかけになったということです。

私たちは知識の多寡と鑑賞力の優劣を混同してはいないでしょうか。たくさんのことを知っているからといって、それだけですぐれた鑑賞ができるわけではありません。たとえシンプルなことであっても、自分で何かを感じたり、気づいたり、考えたり、刺激を受けたり、感動したりすることこそが美術鑑賞の角なのだと、おばあさんは私に教えてくれました。(81ページより)

美術をめぐる状況はしばしば私たちを誤解させますが、多くのことを知っているからといって、すぐれた鑑賞ができるわけではないということ。そんなことよりも、自分の感覚を軸としてなにかをえることこそが美術鑑賞の核だという考え方です。(78ページより)




このような考え方を軸として、美術館のカフェの楽しみ方からパンフレットの活用法、鑑賞する力の育て方までが本書では幅広く紹介されています。決して難しい内容ではないので、読み終えたころには美術館章に関しての考え方が変化するのではないかと思います。ぜひ目を通してみてください。


(印南敦史)

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