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米田智彦  - ,,,,,  11:00 AM

デビュー15周年!津軽三味線二丁で世界と真剣勝負。吉田兄弟の進化と挑戦

デビュー15周年!津軽三味線二丁で世界と真剣勝負。吉田兄弟の進化と挑戦

141214yoshidabros_top.jpg津軽三味線のルーツは文字通り青森県津軽地方。その源流は19世紀後半まで遡るそうです。戦後、特に1970年代には津軽三味線ブームが訪れ、ひいては民謡ブームが起こりました。そんな1970年代後半に北海道・登別で生まれた吉田良一郎さんと健一さんの兄弟は5歳から三味線を始め、今や日本を代表する和楽器奏者「吉田兄弟」として世界で活躍しています。

先日、僕はビルボード東京で行われた健一さんのソロライブを観る機会に恵まれました。三味線に加え、ドラム、ベース、キーボードというバンドスタイルで演奏されるコンサートは、津軽三味線の力強さを観客に伝えつつも、現代に聴かれるべきライブ・ミュージックとしての魅力を放っていました。

終演後の楽屋を訪れると、健一さんに直感的に「こういう音楽をお好きなんじゃないですか?」と幾人かのミュージシャンのお話を振ったところ、ロックやジャズ、ヒップホップといった和楽器とは違うジャンルの音楽の話題で盛り上がり、今回のインタビューへとつながった次第です。

2014年最後の「編集長インタビュー」では、デビュー15周年、全米デビューから10年を過ぎ、ますます、三味線二丁で伝統と革新、日本と世界を往来しながら活動を加速させる吉田兄弟のお2人にお話をうかがいました。


吉田良一郎(よしだ・りょういちろう 1977年生まれ)
吉田健一(よしだ・けんいち 1979年生まれ)
北海道登別市出身。津軽三味線の兄弟奏者。
ともに5歳より三味線を習い始め、1990年より津軽三味線奏者の初代・佐々木孝に師事。津軽三味線の全国大会で頭角を現し、1999年にアルバム『いぶき』でメジャーデビュー。邦楽界では異例の10万枚を超すヒットを記録し、現在まで12枚のアルバム他を発表。伴奏楽器の三味線とは異なる器楽としての津軽三味線独特の魅力を強調し、オリジナル曲を多数作曲。2003年の全米デビュー以降、世界各国での演奏活動や、国内外問わず様々なアーティストとのコラボレーション(MONKEY MAJIK/DAISHI DANCE/ももいろクローバーZ/EXILE/大沢たかお他)も積極的に行っている。また近年、良一郎さんは代表的な和楽器(三味線・尺八・箏・太鼓)による学校公演を中心とした新・純邦楽ユニット『WASABI』を始動させ、健一さんは若手トップクラスの奏者が集結した津軽三味線集団『疾風をプロデュースするなど個々の活動の幅を広げ、日本の伝統芸能の枠を超えて、ワールドワイドに活躍できるアーティストとして期待されている。


兄は上京後、民謡酒場で修行。弟はバイトをしながらイベントを主催


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(左)兄・良一郎さん、(右)弟・健一さん


米田:お2人は5歳から三味線を始められたわけですが、プロになろうという意識はいつぐらいから芽生えられたんですか?

良一郎:僕は17歳の高校生のとき、大学か就職かを選択するタイミングでプロになることを考えました。高校の頃には吉田兄弟の名前が北海道中に広まっていて、土日になるとパーティーや結婚式で、道内のいろんなところで仕事をしていました。ですから、自然と「音楽の道に進みたいな」と思うようになりました。何より津軽三味線の魅力にどっぷりハマってましたしね。

健一:僕は高校進学前にプロになろうと決めたんですね。兄は高卒後、民謡酒場での修業の道を選び、浅草に行ったんです。

良一郎:そう、僕は弟よりも先に上京していたんです。

健一:そこで初めて僕と兄が離れるという時期が訪れるんです。1年半ぐらい地元に残って兄と別れて本当に1人になったときに、これからどういうふうにやっていこうかな...と壁にぶつかりました。当時は深夜のバイト、コンビニとか宅急便とか、スーツを作る会社とか、転々としながら働いていたんです。でも、全然続かなくて。3カ月やっては辞めての繰り返しでした。

米田:健一さんにもそんな時代もあったんですね。

健一:その頃に、自分でイベントを主催してやるようになったんですが、裏方もやるようになったんですね。裏方をやりつつ自分で演奏もしたおかげで、すごく自分を客観的に見るようになりました。「あ、俺って(観客に)こういうふうに見えてるんだな」と。その感覚を養って、自分の立ち振る舞いや演奏は構造的にはこうあるべきじゃないかなって。そういうバランス感覚をデビュー前に培ったのかもしれません。


他ジャンルの音楽との邂逅


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米田:他ジャンルの方との共演が多い吉田兄弟さんですが、以前、テレビ番組で演奏を披露された後、MCの方から「すごくロックっぽいですね」と訊かれて、「僕ら、全然ロックを聴いてなかったんですよ」って答えていた姿が印象的だったんです。健一さんはソロでバンドを率いているし、他ジャンルのミュージシャンとの共演も多いので、三味線を演奏しながらもいろんな音楽を聴いて育ったのかなと勝手に想像していたものですから。

健一:いえいえ、本当にJ-POPしか聴いてなかったんですよね。僕らが子どもの頃ってちょうどカラオケが流行り出した時期で、もう「カラオケで歌える曲ならなんでも好き」みたいな感じで、それ以外は聴いていないという状況でした。自分がやっている民謡を聴いて育ったわけですが、普段カラオケで歌う音楽と自分が聴く音楽が混ざるっていうことはあり得ないと思ってました。

良一郎:僕もずっと洋楽器と津軽三味線が混ざることは意識していなかったですね。

健一:ですから、たまたま三味線を生業にしたという感覚なんですよ。他のジャンルとの出会いという点で言うと、僕はカホンというペルーの打楽器とのコラボレーションから入りました。そこで生まれた曲がデビューアルバムに収められている『いぶき』です。その後、フラメンコに行き、だんだんと聴く音楽も広がっていって、ジャコ・パストリアス(ジャズ、フュージョンのベース奏者)を聴いたりしてきました。ですから、プロになってから三味線以外の音楽が広がっていったんですね。

良一郎:民謡ファン以外の方により聴いてもうらためには、今、皆さんが身近に感じる音楽や楽器とコラボレーションすること、洋楽器とのコラボというのが一番の近道だろうと考えました。

健一:ただ、僕らが「洋」に合わせることが大変だった、というより兄がどっぷり民謡の世界に入っていたので、兄弟間のすり合わせの方が大変でした。実際、兄と3年半ぐらい離れていたのでその間に培ったものが違いすぎちゃって。後々、その違いが吉田兄弟の面白さにつながっていくんですけど、その頃は兄弟で合わせるのが大変でしたね。


民謡酒場で陥ったスランプを抜けて


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米田:一方で、お兄さんは浅草に出られて以降というのはどのように変化されていったのですか?

良一郎:僕はそこからはJ-POPを全く聴かなくなり、どっぷり民謡の世界に行きまして。北海道にいた頃は青森の民謡、北海道の民謡だけやってればよかったんですけど、東京で仕事として入ったのが民謡酒場でしたので、いきなり九州の民謡を弾かなきゃいけなかったり、素人のお客さんが「あれ歌いたい、これ歌いたい」「伴奏してほしい」って話になったりして、付いていくのがやっとという状態でした。

「東京に行けば上手くなる」と勝手に思い込んでいたんですが、どんどん自分がダメになっていったんです。それまでは大会に出たらいつも賞に入ってましたが、東京へ来た途端に大会の賞に入らなくなったんです。やっぱり伴奏の世界に来てしまったので自分を発揮できなくなってしまって。それからの2年間は、僕にとってはスランプの時期でしたね。

そこで思ったのは、北海道時代の自分を忘れちゃいけないなっていうことでした。北海道にいた頃にやっていたカラーをもっと生かしてプレーしたいという葛藤がすごくありました。浅草の民謡酒場で演奏してると、いろんな方が「弾いてる姿勢が悪い」とか「そのフレーズは津軽じゃない」とか、いろいろ言ってくる。でも、北海道にいた頃はそんなことお構いなしに自由に演奏して、いつも賞に入ってましたから。それを思い出そうとしましたね。


子どもの頃は三味線をやっているのが恥ずかしかった


米田:ところで、登別で津軽三味線をやってる人は同世代にいたんですか?

良一郎:年配層はいるんですが、北海道中を探しても、子どもでやっているのって、僕たち以外におそらく1人か2人でしたね。

健一:ですから、まず自分たちのレベルがどのくらいなのかが分からなかったんです。兄貴が中学1年生、僕が小学校5年生ぐらいのときに、師匠がいわゆる津軽三味線をがっつりやる先生に代わってから、月に1回学校を休んで登別から札幌まで通ってました。その先生に勧められて出た全国大会が刺激になりましたね。同年代の奏者がいて、ちょっと年上の人たちが優勝・準優勝している姿を見て、初めて目標を持ったんです。それまでは北海道では本当に目標とする人がいなかったんですよね。

良一郎:はっきり言うと、周りの子どもたちがピアノやバイオリン、サッカーや水泳をやっている中、三味線をやっているのが恥ずかしかったんです。当時は、土日になると民謡番組も放送されていて、三味線って年配層がやってる楽器っていうイメージが強かったんですね。

でも、自分たちがデビューする頃にはそういう番組もうなくなってました。ですから、今の子供たちは和楽器に対するイメージは真っ白なんですよ。デビューして、各地の学校での公演に行ったら、嫌な感じで見られるんだろうなと思ってたら、子供たちが「かっこいい!」とか「すごーい!」とか言ってくれたんです。

健一:意外でした。民謡に対して真っ白な子どもたちが純粋に和楽器を受け入れてくれるんだっていうのに、僕らの方がびっくりしたということを覚えています。

良一郎:でも、逆にチャンスだなと思いましたね。「あ、この子たちに僕たちの音楽を聴かせると、和楽器に対するイメージが変わるかも」って。そういう意味でやっぱりどんどんポップ寄り、ロック的なというか、洋楽器とのコラボレーションに力を入れていきましたね。


日本発世界の舞台へ


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米田:今では世界中で演奏されているお2人ですが、「日本人のアイデンティティーとしての和楽器がどこまで世界に通じるか」とか「世界の人に届かせたい」とかっていう思いは昔からおありになったんじゃないかなと思うんです。最初に海外公演をやられたのはどこですか?

健一:一応、最初はオーストラリアなんですけど、これはもう吉田兄弟としてじゃなくて、日本からの親善団として行きました。僕らがまだ高校生ぐらいのときです。

良一郎:18歳と16歳ぐらいでしたね。

健一:オペラハウスで初めて演奏したときに、ノーマイクでやらされました(笑)。

米田:それは音量的に相当厳しい状況ですね。

健一:そのときにお客さんが途中で帰ってしまうのを目の当たりにして、「ああ、やっぱり民謡っていうのは難解なんだな」と思いましたね。こんなの1時間も2時間もやられたら、お客さんはやっぱり飽きて帰ってしまうんだな、っていうのを高校生ぐらいで目の当たりにしたんですね。

その後、初めて海外で「吉田兄弟コンサート」をやったのはデンマークです。登別とデンマークのリンゲっていう街が姉妹都市という関係があり、コンサートをやってほしい、というオーダーがきて現地に行ったんですが、そのときも不完全燃焼でした。

良一郎:当時はまだ盛り上がるオリジナル曲がなかったんです。日本で一番盛り上がるのは、やっぱり津軽じょんがら節なんですね。必ずここで拍手がきて盛り上がるだろうっていうのがあったんですけど、デンマークでは全然拍手が起きないんです。

健一:そういう経験があったので、日本でちゃんと認められてから海外に行きたいっていう気持ちがすごく強くなりました。日本人って逆輸入が大好きですよね。でも、僕らは外国で認められているからという理由で国内で認めてもらうというふうにはなりたくないっていう気持ちが強かったんです。それで、デビューしてから長いこと、「海外には行かない」ってオファーを断っていました。ですから、全米デビューした2003年が、本当の意味で海外に出たっていうことになります。


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アメリカでのインストアライブの様子


米田:全米デビューは満を持しての海外、という感じだったんですね。

健一:そうですね。自分たちにとっては、本当にオリジナル曲も揃い、そろそろ出てもいいかという機運になってからです。つまり、ただの伝統楽器じゃなくて、やっぱり今の音楽として認めてもらえるまで、日本人というよりは吉田兄弟というアーティストとして見てもらえるまでいけたかなというところをクリアした上での全米デビューでした。

でも、海外ではもうド新人なわけです。一応打ち上げ花火的にアメリカでライブをやったんですけど、その当時は主にインストアライブで、お店に僕らのCDがあるかないかという場所でした。一応ツアーもやったんですけど、各地の人に本当に面倒くさがられて(笑)。そのインストアライブのツアーを3、4年ぐらいずっと続けて、やっとライブハウスの全米ツアーができるようになったっていうのが5、6年目ぐらいですね。

健一:ただ、演奏が始まったら、お客さんは「わっ!」って目を変える、態度を変える。僕らも「見てろよ!」っていうような感じで演奏してましたし、こっちを向かせる自信はありました。ただ、ライブをやる場所がなかなかないし、広いアメリカにおいては本当にコツコツやるしかない。たとえば、ロスだけはなんとかなるという状態になってもしょうがないですね。全米で勝負するためには、やっぱりアメリカ全土を回らなきゃいけないんです。

米田:その中でターニングポイントになった経験があったのですか?

健一:ポイントになったのは2008年、任天堂Wiiの全米コマーシャルに僕らの曲が使われたことですね。やっぱり1つ突き抜けた感覚がありましたし、アメリカで広く知ってもらう機会を得た瞬間ではあったと思います。


「お客さんにとっては最初で最後の演奏かもしれない」という思い


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2010年の上海万博でのライブ


米田:海外に行くと自分のアイデンティティーをより意識させられますよね。それは日本国内だと分からないことだったと思うのですが、いかがでしょう?

健一:僕が海外に行って毎回思うことは、どの場所でも、来てくれたお客さんにとっては最初で最後の演奏かもしれないということですね。日本っていうものを感じる最初で最後かもしれないし、三味線なんていったらもっと聴く機会がないかもしれない。本当にこの思いだけでやってきたんですね。だからこそ、間違ったものを伝えたくないっていう気持ちはありますね。今でも海外に行くと「間違った日本」だらけです。明らかに残念なものしかないってすごく感じます。

あと、よく言われるのが、「日本でこういうコンサートやってますが、アメリカではどんなコンサートやるんですか?」ということです。でも、逆に僕は「何か変える必要ありますか? なぜ現地のお客さんに合わせる必要がありますか?」と訊きたい。自分たちが日本でやってるものを信じられるんだったら、そのままやればいいじゃないかって単純に思うんです。多くの人が海外に出たときに外国に寄りたがるんですけど、だからこそ間違ったものになってしまう可能性を秘めてるんじゃないかと。

良一郎:海外のアーティストと一緒に曲やアルバムを作っていると、向こうの人たちから「そのフレーズいいね。どうやってるの?」って訊かれることがあります。でも、そのフレーズって実は僕たちが最近つくったフレーズではなく、5歳からやってきた民謡のフレーズなんですね。それに対して外国の方は「いいね」って言ってくる。僕たちとしては、新しいフレーズを作ったり、新しい音楽にチャレンジしてるのに...という思いがあるんです。

ということは、世界で勝負するためには日本的な要素をもっと入れた上で、オリジナル曲を作っていくという方向性がいいんじゃないか、という結論に達しました。やっぱりギターなどではマネできない三味線だからできるフレーズを入れ込むべきだということです。

健一:それから、アメリカでのレコーディングを2回ほどやったときは、現地に3カ月ぐらい住み込んだので、どっぷりアメリカンスタイルに浸かったんです。すると、プロデューサーから「レコーディングが終わったらプール入っとけよ」みたいなことを本当に言われて(笑)。そんな自由なノリを経験するわけです。「今日はサンタモニカのビーチに行ってから来い!」とか。「それって全然三味線は関係ないじゃん」って思うんですけど(笑)、逆にそこに意味があって、やっぱりその土地の空気を感じないとダメなんだということなんですね。日本人ってレコーディングですごくきれいに録りたがるんですけど、アメリカ人は全然きれいに録る気がなくて、そこでしか生まれないオリジナルな「空気」が録れればOKだ、ということだったんです。

ですから、僕は「この感覚は日本に持って帰るべきものだな」とも思いました。アメリカでのレコーディングを通して、これは僕のスタイルに合っているもの、これは合わないもの、これはもっと遠いなとか、今、チョイスをできてるようになってきたので、じゃあ、次はどうやって自分たちがやろうか、どんな形にしようか、どこでやろうか、誰とやろうかって、自分たちから選べるところまでようやく来たかなって。ですから、今3度目のスタートに来てるのかなっていう感覚があります。


アメリカで成功するためには現地のコミュニティに入ることが不可欠


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サイン会でアメリカのファンと直接ふれあう良一郎さん


米田:では、アメリカのミュージックビジネスとかそういうのに関してお気づきになられた点ってあります?

良一郎:あれだけ広い国なんで、東のニューヨークと西のロスだけじゃなくて、もう本当に各地を細かく細かく懸命にプロモーションしないと広まらないんですね。

米田:お2人も全米を回る「死のロード」に出たわけですか。

健一:僕らも車を運転しましたからね。ロスからサンフランシスコ、さらにシアトルまで行きました。楽しかったりもするんですけど、本当に過酷ですよ。

現地で強く感じたのは、音楽的な市民権を得ないとアメリカでは成功しないっていうことです。もっと詳しく言えば、ただ良い音楽をやるだけではなくて、地元のミュージシャンと横でつながらないといけないということ。例えば、グラミー賞もそうなんですけど、人脈も得ていかない限りアメリカでの成功はないなって。当時、向こうのレコード会社からも「アメリカに住め」って言われたんですね。そういう一時期でもいいから住む期間を設けないと、信用を得られないよっていう。

米田:暮らして現地の音楽のコミュニティーに入っていく。そこで顔見知りになる必要があるということですね。

健一:そうなんです。アメリカで成功することにおいてはそれは大きい気がしますね。確かに現地に滞在すると、短期間で普段会えないような人たちとばったり会えますから。プロデューサーの家にいたらマルーン5のメンバーがたまたま来たりとか、そういうことがよくありました。

米田:紹介とか、ひと声掛けてもらえるかどうか、みたいな世界ですよね。

健一:そうですね。結局出会いというか。

良一郎:スタジオにいると、「さっきのビートルスの誰々の息子だよ」みたいなこともありましたし(笑)。(ローリング・ストーンズの)ミック・ジャガーが1人でいたりとか。

健一:たまたま同じスタジオにミックがいたんです。どっかで見たことあるな、みたいな。「彼、いいボーカルだよね」みたいな(笑)。つまり、コミュニティーベースの音楽のつながりが世界規模なんです。その部分が日本にはないものだなって、すごく感じました。

米田:将来的に海外に住むことは?

健一:僕は正直、行ってもいいかなという気持ちはあります。

良一郎:理想を言うと、半年ぐらい日本でツアーやって、残り半年は海外に行っちゃおうみたいなことができたら、最高だなと思うんですけど、なかなか難しいんですね。

健一:でも、世界的な市場にちゃんと乗れる存在にならないと、そういうことも難しいでしょうし、そういう意味では海外のミュージシャンとのコラボレーションがてっとり早いと感じています。でも、それも単にコラボするのではなく、やっぱりちゃんと自分たちのものにしていかないと、っていうところはあります。


12月28日公開の後編に続きます。


吉田兄弟 公演情報

「和の祭典」
2015年2月5日(木)
アクロス福岡/福岡シンフォニーホール(福岡県)
問い合わせ先:(株)スリーオクロック TEL 092-732-1688

「三味線だけの世界」
2015年2月15日(日)川辺町中央公民館(岐阜県)
2015年2月21日(土)江南総合文化会館(埼玉県)
2015年3月1日(日)森野文化会館(静岡県)
2015年3月8日(木)君津市民文化ホール(千葉県)
2015年3月28日(土)笠懸野文化ホール・パル(群馬県)
2015年3月29日(木)森ノ宮ピロティホール(大阪府)

問い合わせ詳細は、吉田兄弟ホームページをご覧ください。


(聞き手・文/米田智彦、写真/有高唯之)

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