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印南敦史  - ,,,,,,,,  11:00 AM

二拠点の活動が強みになる:宮城県気仙沼と東京を行き来する、30歳のNPO法人代表理事の「現場主義」な生き方

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二拠点の活動が強みになる:宮城県気仙沼と東京を行き来する、30歳のNPO法人代表理事の「現場主義」な生き方

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数々のビジネスリーダーやクリエイターに、その行動力の源や過去の転機などを伺い、まとめている本連載。お話を聞く中で感じたのは、自分らしく生き、自分らしく働くことの大切さ。さらには取材を重ねていくごとに、「どの土地で働くか」も重要なポイントであることがわかってきました。都会で生きるのか、地方に移住するのか、または都会と地方との「二拠点生活」をすべきなのか。

先の東日本大震災を機に、宮城県気仙沼と東京での二拠点生活をする若者がいます。連載第14回の取材相手は、NPO法人「底上げ」代表理事であり、ソーシャル・アントレプレナー(社会起業家)のネットワーク「ASHOKA(アショカ)」スタッフの矢部寛明さん。矢部さんは1983年生まれ、現在30歳です。底上げのある宮城県気仙沼、アショカのある東京、そして日本全国を忙しく動きまわっています。矢部さんの情熱あふれるワークスタイルは、以下のサイトでも取り上げられています。


自分と向かい合うことで可能になった「マイナスをプラスにする」ワークスタイル|キミハツ -未来をハツラツにできるか。-|オロナミンC|大塚製薬


高校2年生のときからビリヤードをはじめ、大会に出ては賞金を稼いでいたという矢部さん。23歳で大学に入学したということも含め、その経歴はなかなかユニークですが、特筆すべきは「ちょっと変わった経験」のひとつひとつが結果的につながっていることです。


ビリヤードで稼ぐ日々から、2浪して早稲田大学に、そしてママチャリの旅へ


埼玉県に生まれた矢部さんは、4人きょうだいの長男。高校2年生のときビリヤードに夢中になるも、3年生になってから自分が本当にやりたいことは何か?」と真剣に考えはじめ、高校卒業後にワーキングホリデーを利用して、オーストラリアに1年間留学。

その結果、「やっぱりビリヤードを極めたい」という思いに行き着き、帰国後もプロの下についてビリヤード場で働くことに。国体で準優勝、プロツアーでの勝利など実積を積み上げます。しかし、大会ともなると朝方まで試合が続く昼夜逆転の生活に疑問を感じるようになり、21歳になって初めて大学へ行こうと決意。2浪した末、早稲田大学に合格したのが23歳の年のことでした。

大学時代の矢部さんにとっての大きな体験は、ママチャリによる日本縦断の旅でした。大学でも専攻していた環境問題をテーマに、間伐材を使った国産割りばしを配ったり、マイ箸の普及を呼びかけたりするなど、「自分たちが楽しいと思えるエコ活動をやってみよう」と実施。活動プロセスをブログで発信していたこともあり、四国一周をしている最中には高知新聞の取材も受けたのだそうです。

大学2年のときには、「環境問題を訴えながら旅しているのだから、行くべきだ」と友人に提案されたことがきっかけで、洞爺湖サミットに向けて東京から北海道までママチャリ旅をすることに。そのとき、後に震災で被害に遭う宮城県気仙沼を訪れ、現地の人たちとふれあいました。


矢部:気仙沼の「ホテル望洋」というホテルが宿を無償で提供してくださり、かなりお世話になったんです。日本全国のいろんな場所でたくさんの人に助けられましたが、なかでも東北の方は特に暖かかったんです。そのときから、「お世話になった方々にどうやったら恩返しができるかな?」と考えていました。


大学卒業後はオーストラリアの旅行会社に就職が決まっていたため、就職前に気仙沼の人たちに挨拶に行こうと思っていた矢先、東日本大震災が起こったのです。


矢部:3月12日から17日まで、僕は卒業旅行で宮崎にいたんです。そんなとき、津波や火事で気仙沼が大変なことになっているという情報が伝わってきた。ホテル望洋のおかみさんに電話したんですが、まったくつながらない。だから、結局は旅行中も心ここにあらずというか...。おかみさんとやっと連絡がついたのが3月18日だったんですが、そのとき僕はもう山形にいて、そこから被災地に入る準備をしていました。富山に軽トラックを貸してくれる人がいたので、宮崎から富山まで取りに行って、そこから山形まで上がったんです。

おかみさんにいま必要なものを聞いて、クレジットカードで60万円分の支援物資を買いました。そして、知り合いに片っ端から「僕が24歳のときに旅をして、とてもお世話になった被災地に支援物資を届けに行きます。もし僕の活動に賛同してくれるのであれば、お金を振り込んでほしい」と口座番号を書いたメールを送りました。使ったお金は働いて返せばいいと思っていましたが、後で通帳記入をしたら150万ぐらいあったんです。まだ90万円あるということで、あらためて被災地にどっぷり入ることにしました。


就職内定を取り消してもらい、被災地支援を本格的にスタート


140814kimihatsu_2.jpgいまも復興が続く気仙沼。更地の部分には商店街があったが、すべて津波で流された。
地盤沈下が起きた箇所に土を盛る「嵩上げ」作業が至るところで進んでいた。


そこで矢部さんはまず、就職が決まっていたオーストラリアの旅行会社の社長に連絡したのだそうです。


矢部:「被災地が大変なことになっています。僕にいまできることは東北のために活動することなので、入社の時期をずらしてください」とメールしたんですよ。その社長はすごく理解のある日本人で、「いいよ、がんばれ」と快諾してくださいました。それで気仙沼に入ったんですが、ボランティアの受け入れ、津波で流された家や工場の片付けなど、やることが無限にあるような状態。「このままだと、オーストラリアの社長にも迷惑がかかるな」と思ったので、半年ぐらいしてから、内定を取り消してもらうことにしました。でもメールで断るのは嫌だったので、オーストラリアまで「すみません」と頭を下げに行ったんです。


すると社長の口からは、「自分たちにはお金を送ることぐらいしかできないから、君の活動が私たちにとっての救いになっている」との言葉が。


矢部:自分がやりたいことをやっているだけのつもりでしたが、僕がやっていることが間接的に、「誰か」の役にも立っているのかと初めて知りました。社会の流れのなかで、自分の立ち位置や動き方を考えはじめたのは、そのころですね。そういう意味で震災以降、価値観が大きく変わりました。


気仙沼発の若者リーダーシップ育成プログラムをはじめた


気仙沼ではホテル望洋の一室を拠点に、被災地支援に尽力する毎日。やがてそれが、NPO法人「底上げ」の設立につながっていきます。


矢部:震災直後は気仙沼市がいろんな避難所に支援物資を配っていたんですが、小さい避難所にはなかなか行きわたらなかった。ですから僕たちはそういうところに軽トラックで入っていって、ニーズ調査をして、サポートを続けていました。被災地にいようと決めてから1年が過ぎたころ、「しっかりお金を確保しないと続かないよね」という話になったんです。でも、初めてのことばかりで、「どうやってお金を稼ぐ?」「NPOってなんだ?」「助成金っていうのがあるらしいぞ」っていうレベルでした。そんなとき、講演活動が収入源になったんです。当時は「被災地の現状を話をしてほしい」という企業や学校、自治体が多く、講演をすると謝金をいただけたんですね。そこで新しくコネクションができると次につながったんです。NPOは3人で始めたんですが、当初は2人に現場に残ってもらい、僕はずっと全国を巡って被災地の現状を伝えていました。


現在は寄付金と助成金でNPOの活動費はまかなえるようになったため、予算は確保できている状況だとか。そこで講演も行わず、東京と気仙沼を往復しているのだそうです。


矢部:気仙沼のスタッフ、事務局のスタッフ、インターンの子と、いまは5人で回しています。僕は支援者や寄付金を募ってくるという役割と、あとは企業、団体と連携を強めるための打ち合わせなどが仕事のメインです。


それからもうひとつの重要な役割が、高校生への学習支援です。


矢部:ボランティアコーディネートを通じて知り合った気仙沼の高校生に話を聞いたら、いろんな答えが返ってきたんです。「僕の家は2部屋しかなくて4人で住んでいます」とか、「お父さんは仕事をしないで家にいます」とか、「お母さんとお父さんの仲が悪いです」とか。勉強机がないという子も多いし、そんな子たちのためになんとかいい状況をつくれないかなとまず思った。

もう1点が、変われない大人にアプローチするのでなく、変われる若い子を変えていこうと考えたことです。しがらみを超えて、本当の意味で「復興」を目指していかなきゃいけないと思ったわけですが、大人って変われないじゃないですか。でも子どもたちを分析してみると、けろっとしてるんですよ。前しか見てないというか。15年ぐらいしか生きていないと、過去が少ないんですよね。逆に60年ぐらい生きてる方って、過去を流されたことのダメージが非常に大きい。なので、若い子たちってすごいなと、そんな子たちと一緒にいた方がいいと思ったんです。

それがきっかけで、震災の年の8月から学習支援を始めました。週に4回、仮設住宅やコミュニティースペースでやっています。大学生と子どもたちが交流できる場所を作って、勉強を教えたり、一緒に遊んだりして、子どもたちをエンパワーメントしていくかに重きを置いています。


高校生たちに芽生えた自発性


140814kimihatsu_3.jpgNPO法人底上げの事務所。気仙沼にある一軒家を拠点にしている。
壁にはメンバーの予定表などに加え、決意の言葉や、イベントの計画表が貼られていた。


学習支援を続けてきた結果、気仙沼の高校生たちに変化が見えてきたといいます。具体的にいえば、自発性が芽生えたということ。ネガティブだった子たちが前向きに変わっていった姿からは、矢部さん自身もパワーをもらったようです。


矢部:あるとき気仙沼の将来について話し合った際、「気仙沼は楽しくないです」「東京行きたいです」「大学は仙台か東京に行って、気仙沼を離れるから関係ないです」みたいな意見が多くて、すごく違和感を覚えたんですよね。そこで、「この子たちが気仙沼に誇りを持てるように、自分たちで考えて行動できるようにできないかな」と思って、「こども会議」というっていう活動を始めたんです。


それは1カ月に2回、自分たちになにができるか、どうしたら自発的に活動できるかを中高生で考える会だとか。そしてその結果、町のためになにかをやりたいという子たちがぽつぽつ表れはじめたのだと言います。たとえば、そこでクローズアップされたのが、「恋人」という言葉を初めて使った気仙沼出身の歌人である落合直文の存在。それまで学校の授業などでも触れられてきた人物ではあったそうですが、矢部さんたち「外部」の人間が入って初めて、その価値に高校生たちが気づいたのだそう。


矢部:「恋人が発祥の地なんて、すごくない?」みたいな話になって、それが「恋人にちなんだリーフレットを作って、気仙沼を盛り上げよう」っていう話になっていったんです。結果、リーフレットを自分たちで作って、観光協会やホテル、市内の店舗に配布してるんですよ。観光協会からも好評で、今度第3弾ができます。全部自分たちが主体的に考えて、気仙沼を盛り上げるために広げるっていう活動をしているんです。

僕は役割は、そうやって若い子たちが考えてきたことを「本当にやりたいの、なぜやりたいの」と問いただすことです。高校生たちにとことん自問自答をさせる。そういったプロセスを彼らはやったことがなかったんです。言われたことを消化してきただけだった子たちが、初めて自発的に動いてかたちにしていく。だから、みんな生き生きしてるんです。そういう子たちをどんどん増やしてくことが、いまの活動のメインですね。

いま僕たちがやっていることって気仙沼だけではなく、いろんなところでできると思うんです。だから、この気仙沼発の若者リーダーシップ育成プログラムをどう展開していくかをかなり考えています。そこで、岩手県の大槌町や大船渡、宮城では気仙沼、南三陸で連動をしようとしているんです。そうやって、若者が盛り上がれるプラットフォームをつくることが僕の計画ですね。


140814kimihatsu_4.jpg学生たちがつくった冊子。
気仙沼観光にスポットをあて、アイデアを出しあいながら、地元を盛り上げようとしている。


現場に入り込んで、腹の底を見せて「支えあう」


お話を伺っていて、底上げにはよくあるボランティアや支援団体とは決定的に違うポイントがあると感じました。矢部さんにそのことを伺ってみると「現場感」ではないかと答えてくれました。


矢部:よくある団体はどこかから支援金をもらったりとか、それこそ行政のお金をちゃんと利用して、生活を保障されながらやるのが一般的です。自分の生活を守る上では当然で、そうやって運営する人もありですが、僕はそんなことを知らずに、いきなり被災地に入ったのがよかった。現場に入り込んで相手に腹の底まで全部見せないと、相手も腹を割ってくれないんですよね。「こいつは本気だな。自分の人生を懸けて、気仙沼に来てるな」っていうことを、気仙沼の人は見てくれているわけですよ。それがすごく重要だと思っているんです。

被災した方って、申し訳ないなっていう気持ちを持ってる人たちが多いんです。一方で僕たちもお金がないから、「困ってるだろう、靴下でもやるよ」みたいなことを言ってもらえる。すると、それだけで関係がぐっと縮まる。それが良いか悪いかは別にして、僕はすごい心の通った、人間同士の、本当に支えあっている関係っていうのを感じられたというか。被災をしている側、支援する側という壁を超えて、付き合っていきたいんです。


「僕は死ぬまで東北に関わる」という覚悟を持ち、復興支援を続ける矢部さんにとって、気仙沼は特に思い入れのある土地だといいます。


矢部:どん底に落ちた場所なんですよね、気仙沼っていう地域は。僕がどれほど一生懸命がれきを撤去しても、半径1メートルしかきれいにならない。そこから上を見ると、山ほどのがれきが残っている。学習支援をしていれば、お母さんを亡くした高校生が泣きながら僕のところに来る。何ひとつ、言葉を掛けられないわけですよ。自分はなんて無能な男で、なんて無力なんだっていう失望を、ずっと気仙沼で自分に言い聞かせ続けていた時期がありました。

だから、僕は気仙沼に帰ると、なんだかまだ気仙沼で失望している自分がいて、そいつと対話する感覚になるんですよね。それで、結構お尻をたたかれるというか。当然、苦難を共にした方々もたくさんいて、そういう方々と会えるのはすごいうれしいことだし、落ち着くんです。けれど僕にとって気仙沼には、そうやって「原点になる」部分があるのだと思います。


「やりたいことがない」なら、やりたくないことを埋めていくと答えが見える


現在は気仙沼と東京を行き来して働く矢部さんですが、そのどちらでも高校生や大学生などの若者と接する機会が多いそう。そんな中で気になるのが、「やりたいことがない」と口にする若者たちだともいいます。


矢部:大学生と接する機会が多いんですけど、「僕、やりたいことがないんです」とか「将来なりたいものがない」とかいう子がいるんですよね。僕も当時はそうだったんですけど、そういう子たちには「やりたいことを見つけるんじゃなく、やりたくないことを挙げてみな」と話をするようにしています。たとえばキャンバスに絵を描くとき、どうしても描きたいのがリンゴであれば、リンゴを描こうとしますよね。でもリンゴを描かなくても、リンゴの外側の空間から描いていったら、最終的にはリンゴが見えてくる。そういう視点って、おもしろいなと思っていて。やりたくないことを埋めていくと、残った部分がやりたいことになるというか。

僕は「自分で考えて、自分で動いて、自分の幸せを、自分が動いて表現できる人たち」を増やしたいんですね。そして、そうやって僕に関わった人が幸せになるのが、僕自身の幸せにもつながるのだって最近感じたんです。そして、「一人ひとりが考えた幸せ」をぶつけることで社会が成り立つのが、いちばんの理想だと思っています。だからこそ、「幸せ」について話し合うことに価値があるし、ベストとベストをぶつけることでしか、打開策は生まれない気がします。そして、ベストとベストをぶつけることが生きることであり、人生だと思っているんです。


矢部さんのお話を聞いていると、強いリーダーシップをお持ちだということを感じます。ご本人は、リーダーシップについてどうお考えなのでしょうか。


矢部:リーダーに必要なのは、共感力が高いことと、相手の気持ちに立って考えられること。そして、自分から常にイノベーションを起こせること。それがリーダーシップだと思うんですけど、東北、特に気仙沼の人々って失敗を極度に嫌うというか、「失敗したら隣の家に顔向けできない」みたいに考える人が多いところなんです。子どもも、チャレンジという言葉すら知らないんじゃないかというくらいなんですけど、トライ・アンド・エラーを繰り返していくなかで成長していける人材がリーダーに適していると思います。

自分に関していうと、僕はいつもどこでもリーダーでありたいし、多くの人たちにいい意味で影響を与えたいなと思っています。好きな言葉は「行動はメッセージ」っていうものなんですけど、つまりは「口で言うんじゃなくて、背中で語れよ」と。だから僕はこれからも、生き方で語っていきたい。ああだこうだ言ってやらない人ってたくさんいますけど、別にそういう人たちを批判するわけでもなく、僕はひたすらに黙々と、1歩1歩行動していきたい。それが僕のリーダーシップ論ですね。


世界的なセクターと現場主体のNPO、その両面を知っていることの強さ


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さて、先にも触れたとおり、矢部さんは底上げの代表理事であると同時に、アショカのスタッフでもあります。アショカはアメリカで30年前に始まり、世界33カ国の支部があり、アメリカでは世界で影響力のある非営利セクターの1つにも選ばれた団体だといいます。アショカが日本支部の人材を探しているとき、若者をエンパワーメントする仕事に尽力している人物として矢部さんに白羽の矢が立ったことがきっかけだったのだとか。思い入れの強い気仙沼に定住していないのは、そんな事情もあるようです。


矢部:いま、業務的にはアショカが8割くらいで、NPOが2割くらいなんです。アショカのオフィスは恵比寿にあるので、そこでの活動がメインになっているんですね。NPOはいまも現場がすべてですから、現場のスタッフに任せている部分が大きい。でも僕がやってることって、若い子たちをエンパワーメントする仕事なので、その点に関していうと、単に名刺が違うだけで中身は同じなんですよね。名だたる企業とやりとりしているアショカと関わりを持ったということで「矢部は出世した」とか言われるんですけど、僕からしてみたら、アショカもNPOも僕がやりたいことを実現できるツールにしか過ぎないので、どっちでもいいんです。

ただ、アショカでは人脈という大きな価値を得ていますが、アショカだけではだめだと感じる部分もあります。いきなりアショカの名刺を出して話をしても、地元の人の心には届かない。「就職を蹴って、気仙沼で1年半ずっと活動してきました」という現場感を語れるのと語れないのとでは、雲泥の差がある。双方がうまくマッチして、どちらも欠けてはいけない。そこが僕の強みというか、武器かなと思っています。


矢部さんは、産業をたくさん入れて、気仙沼を活性化させようとは思わないそうです。そうではなく、「この土地での幸せとはこういうものだよね。じゃあ、こういうふうに動くよ」という人たちが増えるような町にしたいと思っているということ。逆に言えば、「産業が増えたことが気仙沼の幸せだ」と思う子がいれば、それはそれでいいということ。事実、矢部さんと活動した結果、「やっぱり気仙沼には産業が必要だ」と大学の経済学部に進んだ子もいるのだとか。その自発性を育てることに、矢部さんの狙いがあるわけです。

そして、「いろんな人がいていい」と認め、個々の主体性を重要視して、「そうしたいと思う子がいるなら、僕が押しつけることはなにひとつない」と矢部さんは断言しています。「気仙沼で文化を作りながら、それぞれの幸せを感じて動く、活動できる町をどう作っていくか」が自分たちの課題だとも。つまり、まだまだやることはたくさんあるということ。しかしそれらは、次代の若者たちへと引き継がれていくことになるのでしょう。

下記のサイト「キミハツ」内にある記事でも、矢部さんの取り組みを見られます。ぜひ、あわせてご覧ください。


自分と向かい合うことで可能になった「マイナスをプラスにする」ワークスタイル|キミハツ -未来をハツラツにできるか。-|オロナミンC|大塚製薬


(印南敦史)

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